スターダスト


ドキュメンタリー「ビサイド・ボウイ ミック・ロンソンの軌跡」(2017)でロンソンの妻スージーが「ボウイは世間から攻撃されることを恐れていたけれど、ミックは気にしていなかった」と語っていたのが印象的だった、かつそうだろうなと思わされたものだけど(ここでの話の主体はロンソンだけど)、この劇映画にはそのことがよく表れていた。ボウイとは恐れつつ色々なことを試してきた結実なんだと。

映画は1971年のアメリカに降り立った一人の男(ジョニー・フリン)がデヴィッド・ボウイとステージネームを名乗るが「ジョーンズだろう?」とビザや書類の不備もあり怪しまれ、スーツケースの中の「マイケル・フィッシュのドレス」を馬鹿にされるのに始まる。彼はマネージャーのトニー・デフリーズ(ジュリアン・リッチングス)の口にした「アメリカで唯一の希望」にすがってイギリスから渡って来たのだった。「恐れと歌しか持っていない」彼が今の現実と渡り合っている人々から影響を受け、自身の内も顧みて、彼らがまだ見ていないものを掴むまでが面白く描かれていた。

マーキュリー・レコードのパブリシスト、ロン・オバーマン(マーク・マロン)は自分のことを「アメリカでボウイのたった二人の信者のうちの一人」と言う(「もう一人は君自身だよ、そうでなかったら困る」)。「(離婚の書類や家の証書など)おれの全て」を積んだ車にボウイを乗せて広いアメリカを巡るが、ドサ回りにうんざりしていたボウイはそれらを風で吹っ飛ばしてしまう。ぶち切れたオバーマンから、海の向こうでアンジージェナ・マローン)が彼を解雇するよう動いていたと聞かされたボウイは殊勝な顔で「ぼくは君がいい」と翌日から助手席に座るのだった。本作はこんなボウイ見たことない、と楽しい気分にさせられるフィクション、ロードムービーでもある。

車内にて「リトル・リチャードは最高だ」「大好きだよ、兄の影響でね」と身を乗り出すボウイの笑顔にこちらも幸せな気分になる。この映画には(「架空のロックスター」が既に存在していたということに触れない以外は)当時の音楽事情がふんだんに盛り込まれており、「ボウイは『ナイフ』のようだ」との売り込みを聞いた当人が「もっと会いたくなるような文句を使った方がいい、エルヴィスとディランの間に存在するとか」と助言すると、オバーマンがそのギャップにある綺羅星のごときミュージシャンの名をすかさず挙げていく場面など面白かった(なぜかCCRだけ日本語字幕になっておらず)。

旅の終わりに「ぼくには恐れと歌しかない」「じゃあ他人になるんだな」「誰に?」「自分で考えろよ」「くだらないアドバイスだ」とのやりとりの後、アメリカを「飛び立つ」ボウイ…ならば以降のジギー・スターダストまでの活動がはしょられるのも当然か。憑りつかれていたがゆえに手紙を書けなかったのか、単に気が回らなかったのか、連絡のないのに苛立ち脱走してきた兄テリー(デレク・モラン)を送った精神科病院で行われていた当時最先端のドラマセラピーで「おれがなるはずだった歌手」として「What Kind of Fool Am I」を歌う兄の姿に最後の刺激を受け「断片」をまとめる。ボウイがボウイになっていく。

(オバーマンとの会話に出てくる「イギー・ポップ」「ヴィンス・テイラー」「レジェンダリー・スターダスト・カウボーイズ」などがボウイがジギーを作る元とした「断片」であるとファン以外に伝わらないであろうことは、この映画の欠点と言えるかもしれない)

ボウイが作った曲の使用許諾は無理でもカバーしていた曲は許可を取れば使えるというので、作中2回の「マイ・デス」(オリジナルはジャック・ブレル)が素晴らしかった。一度目の半ば自棄という演出もよかったけれど、映画の終わりのステージでの、ボウイとしてジギーとして、ジギーも脱ぎ捨てる者としてのジョニー・フリンの歌の説得力のあること。映画の言っていることを音楽で体現しているという意味では「はじまりのうた」のラストのアダム・レヴィーンのステージに匹敵する(…とは言い過ぎかな、ボウイが歌っているのを聴くとやはりこれしかないと思ってしまうから・笑)。ちなみにルー・リード風のオリジナル曲「Good Ol' Jane」が全く琴線に触れないあたりも、文脈上「いまいちぱっとしない曲」がきちんと流れる「はじまりのうた」を思い出させた。