ファーザー


なるほど認知症を疑似体験するのが恐ろしいとはそういうことだったのか。同時に疑似でしかあり得ないと突き付けられるから恐ろしいのか。作中のアンソニーアンソニー・ホプキンス)がしている、「誰」「何」を掴もうとする作業は私達が映画を見ている時にすることと同じだ(から本作には抗えない快感がある)けれど、それは現実じゃないから楽しめるのだ。

アンソニーが混乱した時に画面の奥の「自室」に戻るのは、「誰」「何」を掴まえる作業から逃れられるからだが、この映画は人はそれなしでは生きられないと言っているように思われた。最後に自身の現状を捉えたアンソニーが「一人でここに?」と悲しむのはその反映。彼の喩えを借りるなら、葉は自らを落とす風雨があって初めて豊かに生きられるのだ。

アペリティフとダンスの一幕の終わりにローラ(イモージェン・プーツ)がアン(オリヴィア・コールマン)に言う「よくあることです」とは正確にはどこを指しているのだろう。アンソニーが娘のアンの前で(「ゴージャス」だったのであろう)妹は素晴らしかった、母親(自身の妻)もお前も頭がよくないし面白くもない、などと言ってのけるのは以前からそうだったのだろうか。彼の本来の人となりとはどんなものだろう、と考えて奇妙だなと思った。誰かを前にした時、私達は、この人はどんな人なのかと普通考えない。そこに居るのだから。

マーク・ゲイティスとルーファス・シーウェルが演じる二人の、無視したり背を向けたりしまいには頬を叩いたりという女性達とは全く異なるアンソニーへの(彼がそう認める)態度が印象的だが、あれは何かしらの現実の反映なのだろうか、それとも彼の壮年男性に対する敵愾心のようなものの表れなのだろうか。しかし話を聞いてもらえない、信じてもらえない、広義には自分の思うようにいかないという状態はマイノリティにしてみれば幾らもあるわけで、おそらくそれを感じたことなく生きてきたアンソニーにとって恐怖も最大なのではと考えた。

終盤「家に帰りたい」「何が何だか分からない」と泣くアンソニーにある女性がそっと手を伸ばす。自分や他者が誰なのか何なのか分からなくなるというのは人と人との間の距離が失われるということでもあると思うんだけど、そうなっても最後に残るのが物理的な距離を無くすこと、すなわち手と手を繋ぐことやハグなのかと考えた。