ニトラム NITRAM


冒頭よりニトラム(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)の、「自分の家」以外の場所で認められたいという欲求が描かれる。「オーストラリアの若者」が集う海へ行ってみるがセーターに革靴、サーフィンをしたこともないのだからぬかるみに立ちつくすだけ。子ども達がやいやい囃してくれる、同級生は教員として勤めている学校で花火をしてみるが追い払われる。芝刈り機を持って近所の家に片足まで突っ込んでみるが拒否される。

オープニングの記録映像から、ニトラムが生来「危険なことをしてしまう」性分であることが分かる。タイトルのニトラムとはMartinを逆から読んだ蔑称で、彼がそれによって幼少時から今に至るまで周囲に馬鹿にされてきたことが明かされる。母親(ジュディ・デイビス)と一緒に精神科に通っているが薬をもらうばかりで効果はあまりないようだ。中盤運び込まれた病院で呼吸がおかしくなり看護師がやって来る場面に、両親だけが背負うには重すぎる、もっと専門家に頼れる環境であったならと思わずにいられなかった。

ヘレン(エシー・デイビス)は初対面のニトラムを家へ入れてくれる。この映画は彼の苦悩を順を追って描くことで実際に起きた大量殺人事件を私達はどこかで防げた、防げるのではないかと語りかけてくるが、私には彼を家に入れることはできない(殺されるかもしれないから。見ず知らずの男性から何度も暴力を受けているから)。ここではともすれば都合のいい女にも見えるヘレンの言動の端々から伺えるその心情が、二人は与えあう間柄だと語っている。後にニトラムの家にピアノがあることに気付いて、ヘレンにChopsticksを習う姿を思い出し、家では弾いたことがなかったのかと思う。

銃を与えるよりピアノを教えてみればよかった、とせんないけれど考える。子どもの頃に父親(アンソニー・ラパリア)に買ってもらったエアガンの使用をヘレンに咎められたニトラムが彼女を失ったあと銃を買いに行ってのやりとりがやたら長く、異様に感じられる。後には個人宅で入手もしている。こんなものを売っているのに「なぜか」普通に社会が回っている(とされている)というのがこの世の全てに当てはまる比喩でもあるからだろう。映画の終わりには「この事件の後に改定された法が多くの州では順守されていない」「96年より現在の方が多くの銃が所持されている」との文が出る。

(以下「ネタバレ」しています)

食卓では汚いズボンを脱ぐよう注意する母親の傍でそのままでいいと声を掛ける父親は全てにおいてニトラムを肯定し、彼がろうそくの火を吹き消す際には母が切るよう言っていた髪をヘレンと一緒に持ってやる。終盤ある事情から寝込んでしまった父を起こすのに二トラムが殴り続けるのを母が黙って眺めているのは、そうした態度の結果を当人達に分からせているように思われた。「父さんが死んだのに、母さんはなぜ泣かないの」「泣かなくても辛い、あなただって泣いてない、辛くないの」「だって父さんはいなくなった、そうする(自死する)のはぼくのはずなのに、誰だって辛いのに」とのやりとりからは、彼が父親を脱落者と見ていることが伝わってくる。これは世界の縁にかろうじて引っ掛かっている家族の話であった。