荒野にて


引っ越しの荷物からまず小さなトロフィーを窓辺に並べるオープニングのチャーリー(チャーリー・プラマー)の姿に、彼がここを家と認識していること、あるいはしようとしていること、ささやかなよい思い出があることが分かる。続く一幕からは、彼が父親レイ(トラヴィス・フィメル)に気を使っていること、好いていることが伝わってくる。なんとなれば、奥の部屋に女がいるからと外へ出るが朝食で顔を合わせるために一旦帰ってくるのだ。学校へは行っていないのに。

父親をぶちのめしている男に金槌を振り下ろせなかったチャーリーは後に病室で「助けてあげられなくてごめん」と謝る。彼は作中最後の夜まで「父親が溺れているのに助けられない悪夢」を見る。それにしても何と…何も頼れない環境であることか。「入院したら金がかかる」と彼を働かせに荒れた家へ寝に帰す父親、「おれと食事するならマナーが大事だ、でも教えてやる余裕がない」と先に帰る雇い主デル(スティーヴ・ブシェミ)、中でも印象的なのが何度も叫んでやっと聞いてくれる、国旗の元のぼんやりした隣人。「彼女」だって父親や雇い主のように、近付いてみれば悪人じゃなさそうなのだろうか。

荒野の一軒家の客となったチャーリーは「これは僕らの家じゃない」と競争馬のピートを連れて立ち去る。彼の「なぜ逃げないの」に対する少女の「逃げる先が無ければ逃げられない」とは、安定から安定までの間の不安定に耐えられないという意味である。これは保護者を失ったチャーリーが次の保護者の元へ向かう旅の物語で、彼は中途の不安定を自分の側が保護者となる事で埋めようとする。彼はピートに「大丈夫、心配しないで」と繰り返すがうまくいかない、全然「大丈夫」じゃない。彼の方は自分がそう言われれば走って逃げる。

「最高の女は皆ウェイトレスになる」とは父親の教えだが、チャーリーは作中二度ウェイトレスに助けられる。ウェイトレスとは食事を運んできて自分は食べない女だが、それを言うなら出てくる女は皆そうだ。「本社の秘書」に始まり「象の耳」を買ってくれる騎手ボニー(クロエ・セヴィニー)、祖父に虐げられている少女、最後の叔母に至るまで。私にはこれは、保護してくれるべき女性の不在というチャーリーの穴を彼女達が埋めているという描写に思われた。しかしそうした優しさをいくら食べたとてその場しのぎだから痩せていってしまう。生き延びることはできても。死なないためには他人のそうした優しさが必要なわけだけども。

心に残るのは冒頭の食卓で父親に手渡されるのを始めとする、チャーリーが紙幣を手にする幾度もの場面。あれらは通り過ぎていくだけで安定には繋がらない。彼ががつがつ摂る食事もそれに似て、一時のものだから彼の中に溜まらない。対して「逃げられない」少女が肥えているのは、変な言い方だけれども、歪んだ安定を溜め込んでいるからに思われた。

この映画で面白いのはチャーリーが叔母に会って以降である。何も言わずとも一目で気付いた彼女が歩み寄り二人はひしと抱き合うが、それでもどこか、一緒くたにはなれない空気。その晩彼は彼女の胸に泣きつくが、それでもどこか、密接していない距離。彼だけがパンケーキをつつく食卓の、誰しも事情があるといった感じ。「自分は食べない」ということは叔母もやはり「他人」で、彼はまぼろしの保護者を追い求めていたのだろうかと思わせる。安定を得ても世界に馴染めない人はいる。このような、現実には在るが映画にはあまり描かれないことを語る作品が私は好きだ。