オートクチュール


「盗んだのはもちろん、あなた」とエステル(ナタリー・バイ)に突きつけられたジャド(リナ・クードリ)は一瞬固まった後に「あなたは私の世界を壊した」と叫ぶ。これは全くかけ離れた二人の女が互いの世界を壊し合う話である。

ジャドは自分で動ける母親に呼ばれれば飛んで行き、いつも助けてくれる親友スアドに盗品から贈り物をしていた。エステルは母の亡霊を見るアトリエを拠り所とし、甘味やタバコといった嗜好品に溺れていた。世界はひとまず安定していたが、オートクチュールの技術を分かち合ううち、二人は互いの世界にも入り込み、その何たるかを教え合うことになる。盗みをしてるじゃないか、体を粗末にしてるじゃないか、などと。その後は親身にフォローする。言葉だけじゃなく体だって、エステルはジャドの、ジャドはエステルの住まいへずかずか入っていく。前者は鍵も掛かっていないところへ、後者はそんなもの乗り越えて侵入するのが可笑しい。
指摘を受け止める苦しみ(エステルの場合は昏倒や怪我として出現する)を少しずつ乗り越えてそれぞれの世界が更新される。温室のバラに心の内を語っていたエステルは一番言いたいことを一番言いたい相手に言う。アトリエの外でも仲間は仲間であると知り、皆で訪れる団地の新年に新しい美を見る。

ジャドの世界の大きな変化は何か。ディオールのアトリエの警備員に怪しまれた彼女は「鏡を見ろよ、おめーだって貧乏移民だろ、富裕層の犬」と吐き捨てるが、お針子として中に入ってみると案外と色々な人がいる(当初より私なら、私なら、とアドバイスしていたカトリーヌが同じ出自であるというのが効いている)。エステルは金持ちではないし、アラブ系だから自分と同じ貧困層と決めつけていた青年アベル(「仕事上の名前」)が裕福だ。それを知ったジャドはスアドに「私達こそフランスだ」と宣言する。これは映画が私達に言っているんである。日本って何だろうと考える。
スアドは父親のしている「奴隷のような仕事」は嫌だから働かないと言う。これは「何もしない」という選択肢しかない状態と言える。私にはこの映画が最も強く訴えているのはそのしんどさのように思われた。日本にも、選択の結果でなく「何もしない」ことしかできない人が沢山いるから、もっと広く機会があればと思う。

ジャドがアベルと「男女の仲」になるのは、好意的に取れば、固まっていた彼女の世界があらゆる面で開けたことの表れにも見える。ベッドでの会話「いつか二人でアトリエを持とう、君はお針子のトップだ」「私はアトリエのボスがいい」「(セックスの体位として)今は上にいるじゃないか」とは全く釈然としないが、彼の「二人なら世界は最高だ」とのセリフを思い返すと、これは特定の関係の中に閉じこもっていてはよくないという話なんだから、彼はまだまだ物を知る余地があるということなんだろうか。あるいはスアドの「スシ」や刺繍職人の女性の「女装さん」のように、フランス映画によく見られる、意識的な差別描写の挿入なんだろうか。