しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス



直近に「15時17分、パリ行き」(感想)を見たもんだから、サリー・ホーキンスイーサン・ホークがいかにも凄い「演技」をしているのが異様に感じられてしまい、始め入り込めず。彼女がマイク・リーの映画、彼がビフォアシリーズに出ていたのを考えると更に奇妙だ。尤もここに描かれているのはコミュニケーションが不得手な二人の物語なのだから、(セリフ代わりに)「演技」をしているように見えても変じゃないのかな、とも思う。


オープニング、ポーチのブランコに腰掛け大人達が自分の話をしているのを伺うモード(サリー・ホーキンス)の姿に、少女時代から話が始まったのかなと思いきやそうではない。エヴェレット(イーサン・ホーク)の方も、育った孤児院で雑用ついでに食事をもらうカットや台車の大きさとの対比が彼を子どものように見せ、冒頭の二人は少年少女のようだった。とはいえ二人は子どものままではない。大人になる素養も気持ちもあってもなれずにいたのが、互いの存在によってなれたとでもいおうか。結婚式の後に台車で帰るシーンには、「小さな恋のメロディ」のトロッコの向こうにちゃんと二人の「家」がある、といった印象を受けた。


物語は相続した家を売ってしまった兄にモードが「私が仕事するから」と反発するところに始まるが、この映画の面白いのは、大人が暮らしていくにはbusinessが必要だ、でもって誰かと一緒に暮らすならそれを共有することが必要だ、ということが描かれている点。モードが自分の絵にエヴェレットの名前も入れる理由を問われ「共同経営者だから、この絵の半分はあなたのもの」と答えるのも、大人同士が一緒に生きるとはそういうことだと言っている。兄のように「大きく稼ごう」というんじゃなく、少額だろうとお金について了解し合うためのやりとりが頻繁に出てくる。


店に入ってきたエヴェレットが店主に「珍しいお客が…」と言われることから、彼は人と接することが少ないのだと分かる。家政婦募集の求人を書いてもらうのに言葉が出てこず物に当たる様子に、話をしないから語彙も少なくそのため苛立ちがちであることが分かる。モードへの初対面時の牛の話は彼流のもてなしに思われたが、その後は話が出来ないから仕事の指示もしない始末。それが彼女の働き掛けにより会話が成立してゆき、ジョークまで飛び出す。未完成の絵が売られそうになり抵抗するモードの様子に遅まきながら気付いて「今の取引は冗談だ」とサンドラ(カリ・マチェット)にお金を返す姿に、第三者を加えてのやりとりも出来るようになったなんてすごい!と思う(笑)


始めに映るおばさんの家の真っ白な外壁、ここに絵を描こうと思えばいくらだって描ける。しかし兄に見捨てられたモードが「ここ(この家)で絵を描こう」と口にすると、おばさんは「汚さないでね」とけん制する。一方エヴェレットは「(家の中の一部を指し)あそこには描くな」という言い方をする。だからモードは、広い世界の中で、あんな狭い、小さい、辺鄙な家(の中と、少し)にだけ絵を描いた。あそこが彼女の居場所、人里から家までの距離は二人の社会からの距離である。「俺は皆が嫌いだ」「皆もあなたが嫌い/でも私はあなたが好き/だからあなたには私が必要」というわけだ。


モードはエヴェレットの中に文字通り入り込んでくる。来るなり家探しをして「あなた、こんないいもの持ってるじゃない」と、やはり見つけたペンキで「きれいに」した棚に飾ってみせる(一方彼が彼女の「箱」の中を見るのはその死後である)。彼女が彼に入って来るのは、「love slave」だから。そっか、私そうなんだ…と笑うホーキンスの謎。「男にもてあそばれて面倒なことになった」今(冒頭)も夜遊びし車で送ってもらう(はっきりとは描かれないが「男」が好きなのかなと思わせる)なんて描写も面白い。冒頭「裏」じゃなく「表」から登場するところに表れているように、彼女は全然「隠れない」。それが幸せになるこつといえばそうかな、と考えた。