リリーのすべて



映画のラストに感傷的に映されるのは「リリー」だが、終わった瞬間、主人公はアリシア・ヴィキャンデル演じるゲルダだったと思う。


オープニング、荒涼としつつも美しい風景が次々と映り、合間にさらりとタイトル「The Danish Girl」。いかにも風雨にさらされているふうの木々の風景が一枚の絵に替わる。この後に映る、それを見ているゲルダの表情が、私にとってこの映画の最大の謎だった。一目で「自分の描いた絵を見ているわけではない」と分かるが、それではどんな感情が在るのかというと、今思い出しても「分からない」。中盤、これらの風景はアイナー・ヴェイナー(エディ・レッドメイン)が「心の中に持っている」ものだと分かる。それは彼が「混乱」している時には失われ、「リリー」となってからは、もう絵が描かれることはなかった。


「同性愛者」のヘンリク役のベン・ウィショーと、アイナーの幼馴染にして彼が恋した相手のハンス役のマティアス・スーナールツの、当代の人気俳優のきらめきが無ければこの映画は私には随分印象が違ったのではと考えた(ウィショーの方には興味が無いけど!)ヘンリクが住む目もくらむ程の集合住宅は、「絵のような」画面効果を狙っただけではなく、「同性愛」が犯罪とされている社会で「皆」に紛れている彼の日々も表しているのだろうし、アイナーとハンスの、同じ出来事についての記憶の大きな相違は、彼が「混乱」することのない人間だということの表れだと思う。振り返ると、リリーを取り巻く人々が自分の人生を地道に歩んでいる感じが面白いけれど、見ている間は、彼らがまばゆくて気付かなかった。


各々の道をゆく二人とは違うのが、「自分にキスしたみたいだった」時からきっと、アイナーと同じ道を歩んできたゲルダで、彼女自身は「あの時モデルを頼まなかったらと後悔してる」と言うが、彼が彼女のスリップを身に着けていた時のベッドでの振る舞いのように、あるいは彼の「僕はいつも演じている」との言葉を受けての(ちなみに後に百貨店で「演じる」のは楽しんでいるのが面白い、人には選択の自由が必要なのだ)「別人になろう」という誘いのように、愛する人の思いを常に、常に汲んでの言動が「リリー」を目覚めさせたのだろう。リリーが「自分」として覚醒したことにつき彼女に感謝するのは、要するにそういうことなのである。


ゲルダがリリーを描いた絵は、なぜ「売れた」んだろう?彼女は画商に「正しいテーマを選べば成功する」と言われるが、「リリー」がそうだったのか?「これまでとは違う」と言う画商は絵の中に「何」を見たんだろう。今までは無かったモデルへの「思い入れ」、あるいは「性」にまつわる何らかの表出?手術を控えたリリーは「あなたの絵の中の人物に近付ける」と言うから、それまでにゲルダが描いた彼女は、彼女にしてみれば「自分」とは違う、ということになる。ともあれ「絵」の出てくる映画によくあることだけど、その「絵」がいいのか大したことないのか私には「分からない」から、映画そのものも何だかよく分からなくなってしまう(笑)