ちはやふる 下の句




「かるたをやる理由は、一つじゃなくてもいいだろ?」

(そう、何だってそうだよね)


「上の句」がものすごく面白くは無かったので出向くのが遅れたけれど、とてもよかった。
変なことを言うようだけど、もう一度見たいという気持ちは今は無い。「映画」とリアルを混同しているようだけど、それこそ「千早ぶる」で、あそこまで進んだものを戻したくない。


冒頭、畦道でのすれ違いからの一幕、見た目が「少女漫画」そのままだった、といっても勿論「そのまま」なわけがないんだけど、でもそのままだった!(笑)
千早(広瀬すず)が夢に見る「かるたが一番楽しかった時」に手をタッチし合っていた三人は、この時はばらばらである。太一(野村周平)は千早の手を握れないし、会いたかった!と泣く千早も、新(真剣佑)に抱きつくでもなく、両手で自分の顔を覆う。この時は「まだ」なのだ。三人が再び「繋がり」始めるのは、それぞれが「一人じゃない」と知った雨の日、トロフィーを持ち帰った太一に千早がしがみついてから。この日、太一が肉まんくん(矢本悠馬)の言葉に笑ってしまったのは、自分だって千早と同じじゃないかと気付いたからである。


千早が繰り返す「つながれ!」が「下の句」の「テーマ」なのは自明だけども、私には、同じようだけどちょっこっと違う、自分が世界の中で生きていると実感すること、自分と世界との調整、みたいなものを描いているように思われた。
自分は受け継ぎ、受け継がせる存在であること、自分が居なくても世界は回っていくこと。少々、特に後者については、このことを示すための筋書きが強引にも感じられたけど、こうしたことを誰もが「経験」できるわけじゃないから、フィクションで描くのって大事だと思う。こうした気付きの過程を描くには誰か一人に絞った方が分かりやすいから、今作はほぼ千早の視点で話が進む。


思えばこの物語は「かるた部を作る」ところから始まるのだった、それには千早の気付かない「継承」という意味があったのだ。それを教えてくれるのがどSくん、「上の句」ではその呼び名含めて「残念」だったけど、演じる清水尋也を「ソロモンの偽証」で見た時から好きなので、今回の役どころは嬉しかった。でもって、そっか、この映画は先に書いた「自分と世界との調整」を描いているのだと私が思った時、千早はいてもたってもいられずに全力疾走してくれる。
一番感動したのは、新が階段を上る机くん(森永悠希)の背中を追って会場に導かれるところ。先のどSくんとのくだりで、太一と先生(國村隼)がやりとりする境内や新が留守電を聞く背後を子ども達が駆けていた姿が思い出され、作中では一番「下」の世代である千早達の更に「下」が居るのだと気付いたものだけど、この場面で更に、世代だけゃなく、知る者からまだ知らない者への繋がりもあると分かる。


部長として千早を叱るも、「先生に聞いた」「それも先生に聞いた」と既に誰かが彼女にしたことしか出来ない太一が、「何のためにかるたをやってるんだ」とふっと突いてくるのは、札を守っているところにすっと手が入ってくるみたい。新と詩暢(松岡茉優)が向かい合う姿は、作中何度もこのカタチを見てるのに、この二人のそれに初めて思った、かっこいい猫同士が対峙してるみたい。
「上の句」で多用されていた、原作にもある床下からの?アングル(同時期に公開されていた「リリーのすべて」でゲルダが絵を描くカットと似ていると思った)が一切無いので、私は最初の方で読むのをやめたから(理由は「無駄美人」などのセンスが嫌いだから)知らないけど、原作で使われなくなったからなのかな?あるいは「下の句」のテーマと合わないからかな?と思いきや、「上の句」のオープニングに繋がるラストで出してくるのが憎い。続編が楽しみ。