未来を花束にして



オープニング、投げ付けられた配達物を手に洗濯工場を後にしたモード(キャリー・マリガン)が歩く「1912年」の路地は、これまで幾多の映画で目にしてきたものと同じ「感じ」だ。今後この時代を舞台にした映画は彼女達を意識せずには見られないな、と思うと同時に、そうしたことを煩わしがる人がフェミニズムを煙たがるのかな、などと考えた。エンディングには「女性が参政権を獲得した年と国」が流れ、今のところの末尾の「2015 サウジアラビア」に、「それ」は今も繋がっているのだと意識が高まる。めでたしめでたしで終わる物語は無いのだとも。


モードが「活動家」になってゆく過程が実に細やかに描かれる。冒頭の仕事帰りに「素敵な服を着て海辺でくつろぐ親子」のマネキンを眺めていると、見ているだけでは手に入らないのだというように(それがこの映画の「テーマ」である)、そのウインドーが同僚のバイオレット(アンヌ=マリー・ダフ)による投石で割れる。彼女の娘に対する工場長の所業と、彼が自分に「親切」なのは自分が「女」だからということを知る。バイオレットの代読のはずが、自然と「自分のこと」が口を付いて出る。そうすると、後のロイド・ジョージ議員から告げられた「否決」に、「liar!」と心の底からの声が出る。


エメリン・パンクハーストを演じるメリル・ストリープの貫禄たるや素晴らしい。新聞の「雲隠れか?」との見出し、イーディス(ヘレナ・ボナム・カーター)の薬局内に飾られた写真などで存在感を高めておいて、満を持して演説の直前に登場。「私は奴隷よりも反逆者になる」で終わるシンプルなスピーチだが、「何かを犠牲にするしかもう手はない」という訴えに、メリルの「カリスマ性」が説得力を与えている。彼女を見上げるモードの顔の輝きに、私も胸がいっぱいになる。加えてちょっと危険な感情だけど、国に目を付けられているメリルを女達が守る描写にときめいてしまった。アマゾネス映画的なね(笑)


モードが対峙する相手はアーサー警部(ドーナル・グリーソン)である。彼が「女性が男性より劣っているとは思わない」(のは本当であると、その演技から「分かる」)ことから、「法を守る」彼と「法を変えんとする」彼女の対立がよりはっきりと浮かび上がる。前述のように次第に活動家としてしっかり立つようになった彼女は、最後に向かい合った時には「私達にはこの手段しか無い」「私達が勝つ」と言い切る、いわばエメリンの言葉を自分のものとしている。初対面時、時計を見て息子の迎えとお茶といった目先の大事だけを気にする彼女はもうおらず、100年後をも見ている。最後に彼女が読む「Dreams」の一節、「私の後に続く足音」が聞こえている。


「目が覚める」につれ、モードは夫サニー(ベン・ウィショー)との(彼からしたら何でもない)やりとりでもって更に「目が覚める」。作中最後の捨てゼリフ「法は俺の味方」が決定的だ。自分に従っている限りは優しくするというやり方は、弱者にとっての「社会」だとも言える。他にもホートン議員夫人(ロモーラ・ガライ)の夫(女性に財産権が無いことを示す場面が挿入されているのが上手い)やイーディスの年長の夫など様々な「夫」が出てくるが、公聴会での証言を知った夫に殴られたのであろうバイオレットが妊娠するのには、女に何の権利も無いような時代にはどういうセックスをしていたんだろうと考えてしまった。本などでそんなようなこと、読めなくはないけど、何ていうか、どういう「感じ」かなと。でもって今だってそんなに変っちゃいないのかもとも思う。


作中、国王ジョージ5世の写真が何度か出てくる。モードの家では寝る前の息子におやすみを言わせている。警察署には更に大きな写真が飾られている。「国王」とは、あるいはそれに相当するものとは何のために在るのだろうか、そんなことも考えた。