スリー・ビルボード



もはや三枚の看板を振り返らず、「互いの目を釣り竿で突き合うことをやめ」た二人が「作戦を成功させる」ために並んで走り出すラストシーンに、これも確かに今の映画だと思った。しかしそれならば、「その領域から出てはいけない」とは何のことだろう?
大変に筋の通った映画だけれど、その筋そのものが地に足の着いていない感じもする。マーティン・マクドナーの映画って、私には、不治の病の人を登場させて殺しておいて悲しい曲を流す「みたいな感じ」が常にある。この映画で言うならば、私が生きる現実からあの手紙までの距離とでもいおうか。それから、見れば嬉しい役者が揃っていても「豪華キャスト」という言葉が浮かばない。変な言い方だけど、誰も彼もが、その色をいったん消された上で出ているように思われる。


(以下「ネタバレ」あり)


映画はアメリカ南部の田舎町の「迷った奴かぼんくら」しか通らない道路沿いに立つ、「1986年のおむつの広告」を最後にさびれた三枚の看板に始まる(なんて話をするレッドを演じるケイレブ・ランドリー・ジョーンズは86年より後の生まれである)。だが物語が真に始まるのは、髪をただおろしたミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)のうつろな目が、自宅近く(と分かるのは後のことだが)のそれらに留まった時である。
振り返って印象的だったのは、おやすみの最中に突如夫の馬について文句を放つ妻と、署長の「ヒントは砂の多いところだ」に対するジェイソン(サム・ロックウェル)の「全然絞れない」。後者には笑ってしまったけれど、実にうまい、示唆的なセリフだ。


お菓子を食べながら酒を飲むようになった、すなわち子どもでいることをやめられないまま大人の権力を持った、何とも幼児体型の!男が大人になるまでの物語でもある。だからこの映画で最もドラマティックな小道具は、ジェイソンが後にする家(ジェイソンの母親の家、と言っておこうか)の中に飾られた、彼が描いたのであろう絵、母と息子の写真、それからスポットライトに照らされた彼の幼少時の写真だ。
ビル(ウディ・ハレルソン)が見抜いていたように、ジェイソンには「善き人を目指す」萌芽が元よりあり、手紙を読む前から少しずつ「進んで」いる。警察に抗議に行ってやると息まく母親に対しての「職場に母親が文句を言うなんて変だろ」「…でも、言うなら何て言う?」なんて辺りはいわばその「揺り戻し」に思われる。


Twitterなどで「ポリコレ棒」なんて言い様を見掛けるけれど、なぜ人は「論理」(それは「哲学」のようにおぞましく使われることも多いが)を武器のように認知するのかと考えた時、この映画が一つの答えだと思った。そうならざるを得ない場というものがあり、その時に人はどんな論理をどんな覚悟でもってどう使うかということが、全編に渡って描かれている。
中でも端的に表されているのが、家までやってきた神父とミルドレッドのやりとりである。「皆が不快に思っているからやめるべき」「皆とは?調査したのか」「これこれこういう理由で皆だと言える」「神父達は性暴力を黙って見ているのだから私が意見される筋合いはない」。ミルドレッドが「論理」を振るうこの鮮やかさよ。


ミルドレッドが自分の梯子の下の方を持つジェームス(ピーター・ディンクレイジ)に「支えなくてもいい」と言うと、彼は「こうしていると無心になれる(から、やりたい)」と返す。世の中は辛いことばかりだから、人は無心である時、幸せでもある。無心な時を決して得られなくなったと悟ったビルは自死を選ぶ。
ジェームスが後に「あんなことしなくてもよかった」と言うのは、いわばあの「無心」は嘘だったということなんである。「黙って見ていた者も同罪」と言い切り、自身も息子の学校でそれに則って行動したミルドレッドが、心痛ゆえか、ジェームスが元夫に侮辱されている横で何も言わない。そんな相手の下に「無心」はあり得ないと彼は思ったんである。それにしても、見送った後のミルドレッドの行動は素晴らしかった。あのワインは、大人であってくれ(仮に私がそうでなくても、あなたは)というメッセージにも思われた。