ブリグズビー・ベア



オープニングにジェームス(カイル・ムーニー)が見ている「ブリグズビー・ベア」第何回だかの内容からして、マーク・ハミル演じる「父」テッドは自分の所業を自覚しているのでは、終盤の再会時に「来週プレミア上映なんだ」と脚本を渡された時の表情からして、「息子」が自分に抗い滅ぼすのを望んでいたのでは、と「深読み」できる。さすればそのキャスティングも。、
ジェームスがスペンサーにビデオを貸す際「ここからがいいんだ」と言っていることから、「80年代の何とかというタイガーがヒットした」デザイナーのテッドが作り手とし熟していったことが分かるのも面白い。終盤ハミルが見せる、演技をしている(という演技をしている)姿も、始めはああじゃなかったんだ、きっと、と思わせる。


沈黙の後の「彼が作ってたの!」、その後の「誰でも作れるの!」で空気ががらりと変わることから分かるように、この映画はまずものづくりの話である。あんなに色々なことを経験したジェームスが作中嘔吐するのはただ一度、「自分の作品、受け入れられるかな」と心配してなんだから(ここで励ましに加えて放っておく友がいい)。
誰かが何かを作ることは大抵、周りを巻き込む。ジェームスの映画製作はスペンサーにとっては夢への一歩だし、どう見ても「刑事を演じている」ヴォーゲルグレッグ・キニア/上映中に台詞を口パクしているのがいい・笑)や、あの頃のことを忘れたいホイットニーの心まで少しだけ軽くする。


私が好きなのは、ヴォーゲル刑事から「友達のために冷やしておく」ビールを渡されて飲んだ瞬間、「ここは何のspace?」とジェームスの世界が初めて広がるシーン。無理矢理じゃ勿論(妹の「なぜ水辺にばかり連れていこうとするの?怯えてるじゃん」・笑)そうそううまくいかないけれど、こんなことで世界が広がりもする。
ソーダとクッキー一枚」程度の「クレジット」しか持たないジェームスが、自分を誘う妹には「本当に僕と行きたいの?」、スペンサーには「本当に僕と映画を作りたいの?」と聞くのが切ない。甘やかされて育った私なら「わーい、嬉しい」で済ませるところだ。


万引き家族」の池脇千鶴と本作のクレア・デーンズを、というか映画の作り手のやり方を比べての共通点は、そうだなあ、どちらもその役が女に振られているというところかな、それこそが大きな要素だけども。