グレース・オブ・ゴッド 告発の時


開始早々、体感では10分程度でアレクサンドル(メルヴィル・プポー)とかつて彼に性的虐待を行ったプレナ神父とが顔を合わせる。映画は神父による性的虐待の被害者達の行動を順を追って淡々と描く。それら全ては本来彼らがする必要なんてないこと。被害を受けるとは、その時だけでなくその先もずっと「負う」ということなのだ。

映画はアレクサンドルがプレナ神父に受けた性的虐待を教会側に訴えるメールという皮切りに始まる。その後しばらく彼と関係者との書簡でのやりとりが筆者の声によって表現される。これが効果的で、リヨンで妻と五人の子と暮らす生活に彼の認めた内容が肉声で被る場面の数々から、傍目には充実した人生を送っていようと受けた傷は消えないということが伝わってくる(逆に言うなら「被害者が笑顔でいるなんておかしい」なんて言う方がきちがい、ということだ)。

アレクサンドル、次いでフランソワ(ドゥニ・メノーシェ)、そしてエマニュエル(スワン・アルロー)と、彼らの行動は表面的には順調に進む。しかしそもそもが皮切りまでに何十年の時を要しているのだし(映画の終わりに出る文によると、この事件を切っ掛けに時効が成年してから30年に延びたそうである)、彼らは膨大な被害者のうちのほんの一握りでしかない。環境に恵まれた者が突破口を開くことにより、それほど恵まれていない者が続くことができ、「数は力」にようやく至る。

アレクサンドルは妻が子らを公園に連れて行くのを窓から見下ろしメール作成に取り掛かる。フランソワの妻は「被害者専門のセラピスト」であり、母親はかつて沈黙していた自分を悔いて活動に協力してくれる。一方で彼らのように家族とこのことを共有していない男性が、夜中にフランソワに電話を折り返してくる場面が印象的だ。彼には(少なくともその時は)ハグし合える相手がいないから、掛けてくるのだ(そして後に告白を公表することになる)。

「(会った相手は)お金持ちだった?」「スカウトは皆そうだ」「あなた以外はね」というエマニュエルとその恋人の会話があるが、行動する被害者の多くは裕福な白人男性であり、男性ゆえの苦難はあろうけど、誰かの内心はともかく表に出た際に性的消費や容姿や年齢のジャッジをされないからいいな、とは思ってしまった。性犯罪を犯した人間が何の咎めも受けずにのうのうと生きている、文にすると衝撃的だけど、私達はそれを当然のように受け入れて生きている(私はそうだ)。アレクサンドルの妻マリー(オレリア・プティ)のように、応援することが自身の正義の実現に繋がる人が彼らの陰にどれだけいることか。

「このことを切っ掛けに同性愛や小児性愛について話し合うようになりました」「何を言ってるんだ、その二つは全然違う」「いえ、教会にとっては大きな進歩です」というやりとりは門外漢の私には頓珍漢にも程があるように映ったけれど、恐らく教会においては本当に繋がっているんだろう(教会が「罪」の存在を認めて排除するとなると同性愛と小児性愛のどちらも対象になるので、できないということ?)