落穂拾い


岩波ホールセレクション第三弾のアニエス・ヴァルダ傑作セレクションにて観賞。原題「Les Glaneurs et la Glaneuse」、2000年制作。

ヴァルダは音楽家の友人が拾わなかった時計を引き取り「針が無いなんて私にぴったり」と飾ってみせるけれど、この映画には時間的にも空間的にも豊かな移動があり、その交錯が序盤から面白い。冒頭出てくる女性が畑に立ち向こうを指して「私の生まれたところ、やがて死ぬところ」なんて言ったり、ヴァルダがハイウェイを大型トラックに抜きつ抜かれつつしながら、時に掴まえながら北へ向かったり。

作中のヴァルダによると、フランス語の「拾う」という言葉にはデータを収集するの意もあるという。仲間を訪ね歩いているという意識があるのか、この映画には他の作品にも増して映像を撮る者としての自分が楽しげに収められている。「落穂拾い」のポーズから穂を捨ててカメラに持ち替え、デジタルカメラの説明書を映し、片方の手をもう片方の手で撮り、鋏のダンスに対抗してカメラの蓋のダンスを「落ち着くまで」してみせる。

出演の精神分析医は「他者あっての我」と言うが、この映画を見ると、「拾う」に類する行為には(それがどのような言語のどのような単語で表される行為であっても)他者から自分への流れがあることが再確認できる(仮に自分が落としたものを拾うにせよ、落とした自分の意図の有無や時間の流れにより、その自分は既に他者と言ってよいかもしれない)。

昨年見た遺作「アニエスによるヴァルダ」(2019)でヴァルダが言っていた「独り占めしない」が脳裏をよぎる中、最後の二つのエピソードがやはり圧巻である。無償で行われる自由参加のフランス語の授業(あんな素晴らしい授業、めったに見られない)と、「嵐を避ける落穂拾い」の美術館からの外出。後者には「アニエスの浜辺」の路地に作った砂浜のオフィスを思い出した。

見終わっての帰りにふと、「パラダイスの夕暮れ」(アキ・カウリスマキ/1986)の冒頭、マッティ・ペロンパー演じるゴミ収集人が仕事中にレコードを拾って耳に当てる(と音楽が流れる!)場面を思い出した。そうか、あれも「落穂拾い」だったんだと。映画に表された「落穂拾い」のシーンを集めてみたいものだ。