映画は田舎に始まり田舎に終わる。振り返ればオープニングは土着の文化がスーツの者達によって保護された瞬間のようにも思われる。ポーランドの民俗音楽を残そう、広く伝えようというこの舞踏団プロジェクトにおいて制作側の思惑も勿論一枚岩ではなく、仲間の一人は「この声は野蛮じゃないか」、出向してきているらしき役人は「あの子は髪が黒すぎる、純スラヴ人らしく見えない」などと口を挟む。
(国の上層部の「最高指導者を讃える歌を取り入れれば支援額を増やすからどの(共産主義の)国でも公演できる」に対するそれぞれの態度と、それに続く「田舎の人間は指導者を讃える歌など歌いません」「田舎の人々が無知というわけではなかろう」(と特定の歌を歌わせる、すなわち結局何も考えさせずにおく)なんてやりとりは大変に既視感のあるものだ)
ヴィクトルは「例の子、問題児」であるズーラを「エネルギーがある」と見初める。裕福で神を信じずとも生きられる年長の男と貧乏で父親に性的虐待を受け神を信じる年若い女、両者の自由への態度、あるいは「逃げなければならない度合い」と言っておこうか、に違いがあるなんていつだって同じじゃないか。何もこんな設定の中に置かなくたっていい。組み合わせのありふれようが私には不愉快ぎりぎりだった。
強制送還されるヴィクトルの「最愛の女に会うから一晩待ってくれ」に他の男が「ファムファタルかよ」といわば突っ込みを入れるように、この映画には女もまた生きているということが描かれているが、それゆえ「Rock Around the Clock」が流れる場面なども例えば東西でなく男女間の壁ばかりが表に出ているように私には見えた(でもってそれを今更知らしめてどうするのと思った、悲しいシーンだった)。
作中幾度も使われる鏡による、というか反射による演出が、ピアノにおいても用いられる。私は楽器の中ではやはりピアノが好きなので、鍵盤が蓋の内側に映っているのを見るのは楽しい。しかしヴィクトルの弾くピアノには全く魅力を感じなかった(そういうふうに撮られていると思う)。冒頭彼が「幻想即興曲」を弾く時、同じ立場であるはずの女性のダンス教師はステージ衣装を縫っている。情勢がどうであろうと男女の間に差があることが確かにここにも表れている。
それにしても、モノクロ・スタンダードサイズのスクリーンを見続ける窮屈さから、夜の闇の中に教会の屋根が浮かぶ時だけふと解放されるのは面白いじゃないか。「明るく」なかったら窮屈さを感じない。