岸辺の旅



黒沢清の映画は得意じゃないけど、夫婦の話だというので出掛けてみた。原作小説は未読。
面白く見たけど、「夫婦の話」という感じがしない上に、とても長く感じた。そうだよなあ、白玉粉と焼きビーフンは同じ売り場にあるんだよなあ。ビーフン買う時、よく忘れてしまう。そういう話をしたいんだよなあ、いつも、と思う。


オープニング、瀟洒な部屋、「目的」の見えない部屋でピアノを弾く少女。何だろうと思っていると、深津絵里演じる主人公・瑞希が近寄っていき声を掛ける。「ピアノの先生」があんな遠くで演奏を聞くなんて「ありえない」けど、奇妙に、というかつまらなくは感じない。陳腐な言い方だけど「映画に力がある」からかなと思う。中盤に彼女がとある光景を目にするもしばらくの間「意味が分からない」場面についても、「普通」の映画だったらおかしいと感じるに違いないけど、そうは思わなかった。ああいうものだと思う。


冒頭、スーパーで粉を買って帰宅した瑞希は、早速白玉を作る。カーディガンの袖を少しもめくっていないのが今度は奇妙に映る。「一人」の時はそんなふうなのが、「二人」の時は、朝に牛乳の取り入れ、夕餉の後のお茶、寝る前の果物と、わざとらしい程の「生活」に継ぐ生活が描かれる。最後の共同作業が「梅干し作り」だというのはもう、行き過ぎて逸脱しているように感じられる。ともあれ、それなのに彼らがしているのは生活ではなく「旅」なのだ。思えば二人はなぜ、いや夫はなぜ妻を旅に誘ったのか、そればかり考えながら見ていた。「(行くのは)『あの世』じゃないよ、『本当の場所』だ」なんて。


片方が死んでいるということを差し引いても全くもって羨ましくない夫婦だけど、ある人に「でも、それ以上なにを望むんですか?」と言われた瑞希が、おそらく自分にはもう「それ」が無いことに気付いて急いて帰る後ろ姿、その後の一幕には涙がこぼれてしまった。誰かが誰かを愛している、という映画が私は好きだ。でも「社会的」に生きてもいるから、描かれている人物や関係には目くじらたててしまう。浅野忠信の演じたキャラクターが映画においてどんな「意味」を持とうと、「くそ男を女が受け入れる」話である(そういう話がまた作られる)ことの方が女として生きる私には大きい。加えて本作の二人の一度だけの性交シーンが、私にはひどくつまらなくてびっくりした(「エロい」か否かというんじゃなく、何も感じなかったという意味)