バーニング 劇場版


先日学生の作文を読んでいたら「モデルのような人」とあり、モデル、非モデルの二通りに取れるので引っ掛かったことを、この映画の日本語字幕の「私のような人が好きだと言われた」にふと思い出した。韓国語は分からないけれど、これははっきりしないことについての話である。主人公のジョンス(ユ・アイン)いわく「ギャツビーはなぜか分からないけど金持ちなんだ、韓国にはギャツビーがたくさんいる」。理由なんていくらでも言い得るけれど「なぜか分からない」のが今は正しいとでも言うような、そんな映画だった。

オープニング、ヘミ(チョン・ジョンソ)は派遣スタッフとしてお客にくじを引かせる仕事をしている。お願いします、おめでとうございます、これらはいわば代弁で、私はこういう言葉に触れると常に奇妙な心持になる。仕事とはそういうものだが、ジョンスやベン(スティーブン・ユァン)はそういうことをしていない(どころかジョンスは勝手に代弁して当人に「文が上手いねえ」と言われる)。対してベンの「次の女の子」は又してもそういう仕事をしている。

ラスト、荒涼とした地方のビニールハウスの手前にポルシェを停めて男が降りてくる、韓国映画で幾度も見てきたような画だと思った次の瞬間、いや、「はっきりしない」ということがはっきりしている人物がこんなふうに立っているのを見たのは初めてだと気付いてびっくりした。この映画には以前は描かれていなかったことが描かれている。ヘミが裸で踊るシーンも同じで、これまでは「あの男があの場であの曲をかけた」という背景なしに女が裸で踊る姿だけを見せられていたのが、それこそそれ以外の背景も全て込みで見ることになる。しかし長い、そして自然に溶け込む、監督ならではのあれらのせいでぼけてしまう、私は好きじゃない。

君とは言わない「君のような人が好き」と彼女に向かわない「彼女を愛している」、移動のためではない走りと移動のための走り、ベンとジョンスは全てが対照的だが、女はそこに入っていない。この映画が描く世界においてはヘミがいなければベンはジョンスと知り合うことはなかったろう、そのことがまず、女は特別な何かであり男の国の住人ではないことを表しているように思われた。三人が均等に並んだ後ろ姿がなんとも浮いて感じられたのは、イ・チャンドンがあれがあるべき姿なのだと言っているから…それとは違う世界を描くことでギャップによる告発を狙っているからなのだろうか。

派遣スタッフの先輩格のような女性が(映画としては唐突に)「女のための国はない」と口にした後に場面変わってジョンスがビニールの端にちょっと火をつけてみてすぐ消す、あれはまるで「友達も家族もいない」「役に立たない」と見なされた女がどうなっても誰も気に留めないということの表れのようで怖かった。一方で、村上春樹は絶対に!書かないラストにはびっくり、じゃなく笑いが込み上げてきて実際笑ってしまった。