家路



東日本大震災後の福島に暮らす家族の「今」を描いた作品。警戒区域内の商店街をゆく場面に、この映画において「過去」と「今」とを「比べる」ことは出来ないんだよなあ、とつくづく思った。本当は、どこにだって「今」しか無いのだ。


見る前はチェルノブイリの「後」を舞台にした「故郷よ」(感想)を連想したけど、見ながら思い出してたのは「眠れる美女」(感想)。自分の命は自分のものかってこと、「寿命を延ばす」方に向かうことばかりが「目覚め」じゃないってこと。
「この仕事で救われた女の子、たくさん知ってる」などというセリフに、この物語を「普遍的」なものにしようという思惑を感じるも、「ミクロ」な話ではある。もっともそうしないと、最後の警察官のくだりとか、ああは描けなかったかもしれない。避難している人々のコミュニティは描かれるが、仮設住宅の場面では主人公一家以外の息吹が全く感じられないのは奇妙で面白い。


それぞれの「横顔」の映画である。警察署で一人、気を吐く総一(内野聖陽)、返答の無いドアの前でうつむく妻(安藤サクラ)。警戒区域内の生家で一人、炊き上がった米を見下ろす次郎(松山ケンイチ)と、仮設住宅の台所で「ご飯を炊く」腕を誉められ炊飯器を見下ろす登美子(田中裕子)はやっぱり親子。仲間のトラックで東京へ向かう車中、総一と次郎は前を向いたまま横顔同士で会話をする。
松ケンの作中一番の正面どアップが、中学校の教室での「あの子、いい匂いがしたんだよなあ」というのが面白い。彼にとってのその思い出ってそうなんだろう。女といえば、彼が「友達」に冗談で頼んだ「女の人」がつまるところ母親だった、なんて考えられるのも楽しい。


そして「農業」を生業とする人達の映画だ。オープニング、つなぎに身を包んだ松ケン(つなぎ!とほくほくした自分が今回は少々恥ずかしかった)が歩いてくる姿は実に「いつものよう」で、毎日こうしているのだろうか、と思う。全篇に渡って、彼が農業、というか「自然」に作用する姿が丁寧に描かれる。
父権主義の権化のような男(石橋蓮司)の「コレ」(小指)として「外出を許されず、街生まれなのに田畑に閉じ込められ」た登美子と、彼女と一緒に農業をしながら育ち、そのセンスは周囲に認められているも、「母親が小作人みたいにぺこぺこしてるのが嫌、あんな村は嫌」だった次郎。しかし二人は共に田畑に「呼ばれる」。勿論、育ちや能力に関係なく、それに携わる者にはその者の事情や思いがある、ということも描かれている。


若さと共に鮮烈さは失ったと感じるも、やっぱり松ケンは私にとって日本一の役者。テレビよりスクリーンで見たい。この映画の最後の顔だけでも、劇場に出向いたかいがあった。効果的だった白髪は自前なのかな?
会う人ごとに(といっても彼らの記憶は十数年前のもの)「痩せたな」と言われる松ケンの身軽さと、時に大儀そうなほどの内野聖陽の重さ。それはそのまま、家族を持つ「鈍い」兄と、独り身で「鋭い」弟の対比になっている。内野聖陽が座り込むと、狭い住宅内の風呂場?の戸口はすっかりふさがれてしまう。松ケンは「誰も居なくなったから」こそ帰ってくるし、辿り着いた「県境」でふと、ある人の気持ちに気付く。


話が少々それるけど、この映画もそうだけど、一番に思い出すのは山岸凉子の「天人唐草」だけど、他人を抑圧し続け何事も無く死んでゆく人が出てくる話に触れると、世の中やったもん勝ちなんだから、ある程度好き勝手に生きなきゃと思いを新たにするね(笑)