かそけきサンカヨウ


原作未読。中学生が別れ際に揃って「がんばってねー!」とは何事かと見ていたら、これは「早く大人にさせられた」女の子、陽(志田彩良)の話であり、場面変わって彼女が自宅で一人餃子の皮に具を包む姿にこんなやばい内容をどうするのかと思っていたら、それは問題とはならず、ただ何かに吸収され見えなくなってしまうのだった。

(夕食時に時計が7時半を指しているのを私達に見せるのは、そのくらいの時間なら父親が何か買ってくるなどしろよと思わせる魂胆なんだろうか?)

序盤に二度だけある、喫茶店「赤い風船」に集う幼馴染5人の場面には、奇跡的な平等さとでもいうようなものがあり、はかなく美しい。四席+一席の丁度よい按排のそこから出るとそれは崩れてしまうのだ。それは陽の家の不在の父親(井浦新)の言う「真面目に話し合ったら壊れてしまった」大切なものと同じなのだろうか?

不在の父と不在の父を持つ少年・陸(鈴鹿央士)、男二人が次第に重なって見え、とはいえ前者の「真面目に話し合ったら壊れてしまった」が後者の「好きの種類が分からない」に通じるものだろうか、大人に比べたら高校生とはまだ子どもなんだろうかと思わせる。それでも映画の終わり、少年は真面目に全てを話すのだった。

私にはこの映画は、「やりたいことのために家を出た母親」の受容と引き換えに、進んで父の世話をする娘、外に出るより家にいる方が合うと在宅仕事する母親、「家に居ないお父さんが好き」な母親、最初の母親だって3歳からこっち会っていない娘がちゃんと分かる、それらを物語に差し出さないとダメと言っているように感じられて全く受け付けなかった。そもそも「真面目に話し合ったら大切なものが壊れてしまう」とは、端的に言って男の側が口に出すものじゃないと思うんだけど、そう言わせておきながら映画としては何も言ってこないので困惑してしまった。

(ダイニングに!置かれた母親の仕事机の脇に「ゴーン・ガール」が目立つように置いてあるのが気になってしまった、序盤の夕食時の時計と似た理由で)

携帯電話が使われるのが母と娘の間のみなのはなぜだろう?料理とは「誰かに教えてもらうもの」(=受け継ぐもの)なんだろうか?高校生とはやりたいことが見つからなければ悩むものなんだろうか?まあ、そういうこともあるだろうけど、それにしても(監督のいつもの作品と違って)何か紋切型というか生気の無さが引っ掛かる映画だった。