裁き



公開初日に観賞。とても面白かった。法廷ものというより、それぞれのやり方で言葉を使う人々が法廷で交差する話、その下に社会の分断がある話に思われた。カースト制度などの知識があれば更に面白かろう。分裂を下敷きにまたちょっと違うことを描いているという点では、「トニ・エルドマン」にも似ている。


オープニング、クレジットにひっそりと続いて出るタイトル「Court」に、法廷というものはそんなふうに社会の、生活の一部なんだというイメージを抱く。始まると、集合住宅の一室を寺子屋のように、ベッドの上の老人が子ども達の中の男の子に詩を読ませている。これはまずもって言葉の話である。ラストシーン、言葉を発さない者の気持ちが全く想像もつかないことに愕然とさせられた(尤も何だか「オチ」というふうにも感じちゃったけど・笑)


先の老人、ナーラーヤン・カンブレはステージで「民衆詩人」と紹介される(終盤の歌詞には「芸術家と見なされなければ光栄なことだ」とある)。ここから私には、映画なら当たり前の、人々が言葉を使う様が全て意味あることとして立ち上がってきた。判事が大いに意図を入れて要約した文章を入力する記録者、弁護人の講演前に「興味深いですね」と言いつつ所属団体の名前を間違える司会者。そこでは言葉が一旦死んでいるようだ。


登場時に「ここでの議論は意味がない」と話を切り上げる弁護人ヴィネイ・ヴォーラーは、嫌々赴く裕福な実家で「必要ない話はしないと言ったろう」と腹を立て、母親に「お前は用しか口にしないから話がとんでばかり」と言われる。なるほど元の意味での、詰め物としてのフィラーを必要としない人なのかと思っていると、ポルトガルの歌を聞ける店で仲間と語らっている場面が挿入され、彼の求めるフィラーはインドの昔ながらのそれではないのだと分かる。この分断は身に染みる。彼が被告人の保釈金を肩代わりするのは、川にちょっとずつ土を投げ入れて両岸を近付けようとする行為にも似ている。


一方、登場時に起訴状の読み上げが丸々映される検察官ヌータンは、帰路の電車で隣り合った赤の他人に「素敵なサリーですね」と声を掛けてお喋りをする。相手は「ダンナが糖尿病になったから最近は雑穀を入れてチャパティを焼いてる、不味くない」、なんて実に、事実を口にするだけの「非生産的」な内容だが、こうしたことを必要とする人達がいるのだと分かる(しかもこれが「職場」と「家」との中間で行われることにも結構な意味がある)。家ではPCでなく本を開いて仕事をする。ここではそれは、彼女が並べる100年前の判例カンブレの「30年前の行状」と同じく、更新されないものの象徴のようにも思われる。


インド映画をあまり見てこなかった私にとって、冒頭カンブレが家を出てステージに向かうまでの道のりには、これまでのインド映画では見たことのないものばかり(しかしインドの人々にとってはあまりに当たり前であろうものばかり)が映っていた。ふと心惹かれ、そこに一朝一夕でないものを感じるからだろうと思うも、そのことにつき、無責任な観光者でいるだけのような後ろめたさも感じる。終盤、ヴィネイが死んだ男の妻を送る車内に夕方の陽の光が差し込むのにうっとりしていたら、その先はカラスが我が物顔のスラムであった。