茶飲友達


映画は「妻を亡くし『お迎えを待つだけ』と暮らしが荒れている」高齢男性(渡辺哲)の日常に始まり変化を経た彼の姿に終わる。男性に女性との触れ合いが無いのを欠落とする形で寂しがられるのは迷惑なので変わってくれというのが今の(少なくとも私の世代の)女性の考えだが、若者にその是非を問う余裕などなくそれに乗っかってしまっている…という話かと見ていればそのような視点はなく、高齢女性は売春することで、勿論まずは金銭のためだが、寂しさから逃れているかのように描かれている(売春行為を含む集団生活で、と言ってもいいけれど、売春って「含む」程度のものだろうか)。松子が自宅の鏡の前で服を脱ぎ自らの上半身を確認する場面などかなり古臭いイメージに思われた。このような目線で「正しさ」と「そこからこぼれ落ちること」との対立、その狭間にある諸々を描こうとしても足場が無いのも同然じゃないかと思う。

高齢者に(多くの人が子どもにするように)タメ口で話しかけるマナ(岡本玲)は私にはカルトの教祖のようにしか見えなかったけれど、話が進むうちそうだともそうじゃないとも言えると分かってくる。「こういう世界ってもっと怖いものだと思ってた」「もっと怖いですよ」の通り、彼女が経営する売春クラブは世のそれらのようではないが、ティー・ガールズに順位をつけて貼り出したり「本番行為は禁止ですからね」と言ってみたりと、おそらく自身が当然のように受けてきたごとく女性器を物扱いしてしまっている。そうした複雑さがこのキャラクターの面白さであり次第に彼女が愛おしく感じられてもくるが、色々な要素をつぎ込んだためにたまたま複雑になったという感じも受けて居心地の悪さを覚えた。

『世界は僕らに気づかない』のいわゆるフィリピンパブでの「彼女達の笑顔を見ていると…」とのセリフは言い逃れができないけれど、この映画の「(ティー・ガールズは)きらきらしてるでしょ」はあくまでも作中のある人物のある状況での言葉である。彼女らがきらきらしてなどしておらずパチンコや万引きの依存症に陥っている様子が描かれる。しかし売春をする生活において「きらきらしてなどいない」要素が売春行為そのものの中に無いのはやはり欺瞞だと私には思われた(セックスを売るとは常に「なんてことない」と「なんてことないなんて決してない」とが起こっている状態で、創作物ではそのことが意識されねばならないと思う)。まあそれが最後に爆発して家族をぶち壊したとも言えるけれども。