リリア 4-ever




「悪態つかれても、最後までやめなかったろ?
 同じことさ、そうしなきゃ」


2002年スウェーデンルーカス・ムーディソン監督。彼の手による「ショー・ミー・ラヴ」「エヴァとステファンとすてきな家族」はどちらも好きな作品。
日本未公開・未ソフト化のためなかなか観られなかった本作が、トーキョーノーザンライツフェスティバルで上映されるというので出掛けてきた。旧ソ連スウェーデンを舞台に、売春奴隷犯罪の被害者となった16歳の少女の3ヶ月を描く。


冒頭の言葉に尽きる。リリアは近所の奴らの罵声の中、ベンチに「リリア 4-ever」の文字を刻み終える。タイトルの意味が分かった気でいたら、終盤、唯一の友達ヴォロージャがその時のことを持ち出すこのセリフに打ちのめされた。
ソファでぐったりするリリアを「大丈夫、大丈夫」とぽんぽん叩く男、テーブルを挟んで「せめて手を触ってくれ」とおずおず懇願する男。大の「悪党」ってわけじゃない。でもああいう仕組み、環境があれば、自らの益のためにそれに乗り、他の人間を踏みにじってしまう。世の中そんなものなのだ。でも、悪態つかれっぱなしでも、「4-ever」をまっとうするまで生きてくしかない。それは全然ひとごとじゃない。


リリアの売春描写の容赦のないこと。しかし「不快」な感じはしない。上手く言えないけど、だからこそ、観終わって、私が出来ることは何だろうと思わされる。劇場を出て家に帰るまで、その夜、翌日、自分の言動・選択は、こんな世の中を「よく」あるいは「わるく」することに繋がってると思う。そういう気持ちにさせる映画って少ない。


観ているこちらとしては、誰か大人が「気付いて」「救って」くれないかと思う。売店のレジ、空港の審査、ファストファッションショップのレジ、ガソリンスタンド…リリアは様々な場所で「普通に」働いている女性に遭遇する(皆女性なのは、人に対応する場には女性が多いってことなのかな)。しかしリリアと彼女達の間には、見えない壁があるかのようだ。
(リリアはまだ「子ども」とはいえ)ああした環境下で「仕事」の有無は切実な境界線なのだ。潜水艦基地の廃墟で、リリアとヴォロージャは昔の話をする。「ママはここで働いてたわ」「ぼくのパパもだよ」。ヴォロージャは寝転がって夢を語る。「ぼくたちが一緒に、家族みたいだったらって、思うんだ/仕事した後、ごはんを食べてさ」。またスウェーデンへ連れて行ってくれるというアンドレイに「次の月曜から仕事だ」と言われたリリアは、本当に?と顔を輝かせる。


リリアを演じたオクサナ・アキンシナという女優さん(当時14歳)は、どの表情も素晴らしい。何となくシャーロット・ランプリングを思わせる。
空港の店内で、並んだ化粧品を見ながらふと後ろを振り返るその仕草。自分にふさわしくないと思われてないか、万引き犯と思われてないか、気になるんだろうか?印象的なカットだった。