マイ・アーント・イン・サラエボ


トーキョーノーザンライツフェスティバル2019にて観賞。2016年スウェーデンボスニア・ヘルツェゴビナ作品、ゴラン・カペタノビッチ監督。

先に上映された短編「レフュジー532」(2016年同国同監督作)で、「北欧映画」で見慣れたスウェーデンの人々…池に遊ぶ親子やレジの若者、店員の中年女性などが全く違って感じられたのがよい前振りになると思いきや、振り返ってみればそちらはそちらで、繋がりはあれど全然独立した二本だった。

肉体労働に従事する一人の男に始まるこの映画に、こんなにも色んな人が出てくるとは思わなかった。単に多くの人が出てくるのとは違う、何というか…サラエボのタクシー運転手の「あんたはいい時に国を出た、おれは時期を逃した、子どもには普通の国で育って欲しい、でも普通の国ってなんだ?どこも混乱してる」を経ての、「昔はレディだった」と言う市場の靴下売りの女性がソファに座って足湯をする姿に彼女も何十年もここに生きてきたのだと気付かされる、あそこなんて素晴らしかった。

作中初めてのサラエボのパートで、ロンドン留学を志している少女が銀行員に「多言語を話せると重宝されるっていうからね」と言われるが、この映画の英語には複雑な重みを感じる。戦争難民としてスウェーデンに渡ったズラタンの娘アンニャ、サラエボに残るズラタンの叔母の面倒を見る女性の娘、ズラタンの幼馴染の娘、皆が英語を喋り親世代を媒介するが、その「重宝」だって最初の重宝と繋がっている。

冒頭の待ち合わせのレストランにて、アンニャは言いたいことを言うまで食事を注文しない。心が晴れている時にしかものを食べないのだ。そんな彼女と父が、映画の終わりには家族を爆撃で失った生家の前で菓子パンを食べる。サラエボに着いてホットクのようなスナックを食べるシーンもあったが、これらは安堵と前進の表現だ。ちなみにこの映画に出てくるのは全て「娘」で、特にズラタンと娘アンニャの場面がどこかデートめいて感じられるのには違和感を覚えた。文化の違いだろうか?嫌な感じはそうせず。

よかったのはサラエボでのアンニャの一夜の描写。父親の幼馴染の同年代の娘と遊びに出掛けた彼女は男二人と車の中でweedを楽しむ。これ最高って何て言うの、と聞くと男は「あんたとやりたい」という言葉を教え、見ている方としては不穏なものを感じるが、幼馴染の娘の方があっさりと嘘を暴露してその場は終わり。セックスしたのかしていないのか分からないけれど(そんなことどうでもいいのだ、自分の意思が通ったなら)普通に帰ってくる。現実はああでもある。