幸福路のチー


「その顔で何々語を喋るなんて」という差別が昨今の日本映画において取り上げられているのか否か、SNSや何らかの記事では特に最近よく見られるようになったけれども、日本映画をあまり見ない私には分からない。他のアジアの国の映画ではよく見る。「スーパーティーチャー 熱血格闘」ではパキスタン系二世の少年が完璧な広東語を笑われ、本作では主人公チーより先に渡米した従兄弟の娘が(父と違って)英語ばかりを喋るのにおそらく対応して、台湾に住む幼馴染の娘が「学校でアメリカへ帰れと言われた」と訴える。

「学校では台湾語は禁止、北京語だけ」(しかしその北京語の元がアメリカの言葉にありもする)に始まりチーが「自由の国」に渡るこの映画を見ると、アメリカ映画が血の繋がらない家族を描き続けることが「できる」のは、遠い国で作られたオーナメントで飾られたツリーを楽しむ側の国だからと言えないこともない。私はそう考えはしないけれども(端的に言って、アメリカ人だって色々だから)。しかし「テロが切っ掛けでアメリカに来た」という視点や、アメリカ映画では浸透しきっているカウンセリングを、例えば仮に私がかの地で受けるとしたら、そうだよね、カウンセラーが日本のことを知らないがゆえにしっくりこないという可能性があるわけなんだよね、という気付きがやはり新鮮だった。

私はかつての自分と対話するということに興味が持てないので、あまりこの映画にはのれなかった(いや、対話してないじゃんと言われればそうなんだけども)。チーの祖母に(映画が)頼りきりなのも好きじゃない。作中最後に姿を見せる彼女が「幸せは永遠には続かない」と言う時、祖母自身の人生はどうだったのかと思うのと同時に、私と一歳違いのチーの「今(作品の舞台は10年程前か)」を見ながら、これから迫り来るあれこれについて考えた。