サイコビッチ


トーキョーノーザンライツフェスティバル2020にて、「学校で浮きまくる問題児と学習ペアを組むことになった模範生の生活が乱されてしまう」とのあらすじに惹かれて観賞。2019年ノルウェー作品、マーティン・ルン監督。フリーダの「50年代の言葉?」じゃないけど彼女の髪が私には「ざんばら」に、自分で切ったように見えた。

冒頭の教室にて、担任が高校進学の話を始めるとフリーダが「私は進学しないから」と席を立って出て行く。本当は、全員にあてはまるとは限らないという理由でなくとも授業中に進学の話をするべきじゃないと私は思う(が授業外に時間を割くのもこちらの勝手となるので悩ましい。教員は生徒に時間をもらっているのだ)。ともあれこの場面で、映画が学校を舞台とするのは、子どもを描くためというだけじゃなくそこでは「皆と同じ」であることを求められるからだと分かる。

「皆と同じ」とはまずテンポのことである。進学=将来については全員が同じ時に同じことをすべしとされる。ダンスパーティのペアだって早く決めるようせかされる(そうした枷から離れているのが男友達と寄るアイスクリーム屋さんでのひと時である)。マリウスはフリーダといることで強制された時間の使い方から解放されるが、プールでも夜の教室でも不意に他人が現れる。そのたびに彼は思う、世界は二人じゃないんだから、こんなことやってはいられないと。

フリーダとのやりとりに慣れたマリウスが、憧れのレアと一緒の時に同じような会話を繰り広げんとして怪訝そうにされる(その際の彼の返答は「何だか落ち着かなくて」)ことから、彼がフリーダと同類であることが分かる。私にはこれは、「嘘をついている」と認めて自分の隠された部分を開け放ったマリウスが、やっぱり足並み揃えなきゃとそれをまた閉じ込めてしまう話に思われた。もう一人の自分にして初めての恋の相手といういわば難題キャラクターであるフリーダは人間として現実味がなく、そのため映画全体がぼやけているように感じられた。

今や驚くことでもないが、かつてよくあった場面の男女反転が見られる。「初体験」に級友達が聞き耳を立てているのに気付いて女子が声をあげると、挿入している男子の方も声をあげる。翌日の体育の授業で「彼ったら気持ちよさそうにしてた」「あれはいってたね」などとおしゃべりするのは女子の方である。こういう場面がそう活きていないように感じられるのも残念だった。