マン&ベイビー/サマー・チルドレン

トーキョーノーザンライツフェスティバル2019にて観賞。


▼「マン&ベイビー」(2017/フィンランド/マルヤ・ピューッコ監督)は生まれたばかりの子を育てる父親の話。

私が初めて触れた男の(赤)子育て映画「スリーメン&ベビー」(元はフランス映画)から幾星霜、「プレイボーイが撒いた子種を」という馴染みの筋?が「単にパートナーがいなくなったから」に取って代わったのをしみじみ感じる(去年もこの要素のある映画を見た、何だっけ)。
主人公アンティは父の「(夫婦の)関係がこじれていたとは知らなかった」に「僕も知らなかった」と返す。母親が訳もなく生んだばかりの子を置いて去る、そんな映画があった方がいいけれど、冬の船着き場で妻ピアが妊娠を告げる回想シーンに、妊娠するかもしれないという可能性を背負うのは片方だけ、そのことへの(作品の)抵抗もあるのかと思う。だから彼女は正反対の夏のスペインに帰るのだ。

冒頭アンティはピアに「退屈な人」と言い放たれる夢を見る。しかし赤ちゃんを育てる日々の中で、子育て中にはよくある…いや、よくはないのかもしれないけれど…失敗談を披露してエンニに「楽しい人」と言われる。仕事じゃなくても何かすれば何か変わる。その当の赤ちゃんの笑顔のアップなんてのが無いのがよかった。変な言い方だけど、赤ちゃんがまだ本当にただの赤ちゃん。あれがいい。
母親達の「コリン・ファースはおじさんだけどいける」「私はだめ」「ライアン・ゴズリングは?」「頼み込んでやりたい」「じゃあパサネン(アンティ)は?」なんて当人の近くでのクソ失礼な会話、男女逆なら実際に結構あるからね!彼が「僕はセックスする暇なんてない」と返すと母親の一人が「特別なことをしてるつもりなのか、男だと偉いのか」と詰め寄るが、彼女達が「説明はしない」を合言葉のようにしているのは理不尽に耐えるためかもしれないとふと思った。


▼「サマー・チルドレン」(2017/アイスランドノルウェー/グズルン・ラグナルスドッティル監督)は「夏の子どもたち」として施設に預けられた姉と弟の話。

人が人にし得る中で最も酷いことの一つが最も弱い存在である子どもに向かったらどうなるかが描かれている。昼間は外で遊べと追い出され放っておかれる描写に顕著なように、その酷いこととは出来るだけ楽なやり方で相手を管理するということ。洗濯の労を減らすためおむつを履かされ服を汚さず遊ぶよう言いつけられる。
あの大工の件だとて、彼の犯罪歴を承知していながら身内だからと、あるいは人手不足や賃金の安さゆえに雇って被害を受ける子どもの方に近寄らないよう言いつけて終わり。最悪のやり方だ。でもこれと同じことって身近によくある。

幼い時から言葉を奪われているのか喋らない弟のカーリに対し、姉のエイディスは常に言葉を発し、歌を歌う。「ボールを取らないで」「お腹が空いていないのかも」と弟を思いやって代弁するが常に無視される。言葉を使うことは意思の表明だから管理者には邪魔なのだ。弟が養子に望まれるのは喋らないから(意思を表明しないように見えるから)だとも言える。
「言葉があまり分からない」と紹介される外国人の保育士が、「エイディスは生意気だ」と言う寮長に「生意気ってどういう意味ですか」と問うのは、彼女以外は何も考えずに言葉を使っているということの表れのようだ。日本語の生意気という言葉もまだ生きているけれど、一体他人に対して使えるものかと思う。