プロミシング・ヤング・ウーマン


オープニングクレジットでキャットコールしてくる奴らをキャシー(キャリー・マリガン)がじっと見るのもそうだけど(経験上、確かにこの行為には一定の効果がある)、彼女の、私達を見据えて誘導してからの「お前は何をした/してるんだ」との問い掛けにより、「男達のつつがない世界を乱す存在」を目の前から消し去ろうとする人々の、自分の方こそ被害者なのだと訴える言葉と顔が何度も映し出される。まずはこれらを晒すことが本作の目的である。素晴らしい試みだけど、私にはこの映画はその目的のために一人の女性をあんまり悲劇的に描いているように思われて気持ちがふさいでしまった。

(以下「ネタバレ」あり)

現実の世の中でよく見られるあれらの被害者面が、一人の女性のリベンジものという体裁でもって集められてゆく。しかしこのキャシーの生は自身を囮にするという行為により常に削られている。彼女が路上で齧るドーナツを始め作中の「甘い」物の数々は、力を蓄える、あるいは回復するためのエネルギーのように私には見えた。最後のあの格好にはその捨て身の覚悟が伺えるというものだ(ちなみに主人公が靴を脱いだ汚れた足裏を晒して死ぬというのは、少し前に見たばかりの「トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング」(感想)と同じ)。

男達の視線の先に登場したキャシーがバーで潰れている(ふうを装っている)場面に、普通なら店の人や他の女性が声を掛けるんじゃないかと思ったものだけど、あの画は彼女が「一人」であることのメタファーなのかもしれない。つつがない世界を保つためなら女の尊厳など死ね、あるいは死んでも構わないという人々の生きるレイヤーとそれをどうにかして「正そう」とする彼女が生きるレイヤーとが同じ社会に別々に存在しており、後者には見渡す限り他に誰もいない。キャシーの「他にもこういう女がいるかもよ、ハサミを持ち歩いてるとか」という牽制には、私のレイヤーに生きているのが私一人じゃなければいいという気持ちが込められているようにも思われた。

クレジットなしで出演しているアルフレッド・モリーナによる弁護士がキャシーにすがって赦しを乞う際に打ち明けることには、「啓示を受けたんだ、でも医者には精神病だと言われる」。彼女の行為…いや他者の意図によっては誰かの内に新たな認識は生まれ得ない、生まれたとしても「病気」扱いされると言っているのだ。この時点で、「リベンジ」に依っているキャシーにはこの世が変革できないばかりか未来すらないということが分かる。しかし彼女は彼に頼ることなく悪の巣窟に乗り込んでゆく。始めから本物の手錠を掛けるんじゃなく、あのおもちゃの、女=私達が持っていても何とも思われない手錠でもって間抜け顔を引き出すために。本当に、死ぬしかなかった物語である。