母よ、




「大切なのは、動詞を辞書に出てくる最初の意味で訳さないこと」


最近じゃ珍しい「オープニングクレジットのための音楽」というか劇伴に耳を傾けていると、映画は労働者のデモと機動隊の衝突という想定外の画で始まる。それは映画監督マルゲリータマルゲリータ・ブイ)が仕切る撮影現場。彼女は女優に「台詞を信じすぎないで、役と一体にならず、常に寄り添っていて」と声を掛ける。
まず面白いのは、ナンニ・モレッティが「自伝的」だと言うこの作品において、マルゲリータに自身を託した彼が、彼女の兄として「『役に寄り添う』ってどういうこと」と訊ねたり(返答は「いつも言ってるけど分からない」)、夢の中で追い掛けてきて「なぜ同じことにこだわるんだ、なぜもっと軽やかにならないんだ」と迫ったりする点。一方で、兄の「働くことを辞める」という思想や、打ち明けられたマルゲリータの動じなさも特徴的で、ほぼ彼女の視点で進む本作における兄の「一人」での場面が、そのことについて「今はそれでいい」と言い切る姿だというのも「示唆的」に見える。モレッティの思想が、兄と妹に分散して込められているようだ。


「つけ爪をした女の子ばかり、眉毛を沿ってる男の子もいた、『労働者』を求めてるのに」「これが今の現実なんだよ」「あなたの現実と私の現実は違う」。食堂に集められたエキストラについてのこんなやりとりから、マルゲリータが「自分の現実」にこだわっていることが分かる。この映画の誠実さ、面白さは、人権問題を扱う「社会的な映画」を撮り続けてきた彼女が、スタッフの「それが『今』の現実なのだ」という言葉に(その時は)耳を貸さないというところにある。
マルゲリータがエキストラの人選に納得できないのと、母アーダ(ジュリア・ラッツァリーニ )が瀕死であると受け入れられないのとは通じるところがある。彼女は自分が「知っている」と思っているところで停止している。作中初めてマルゲリータが母に会う病室の場面は彼女の目のどアップに始まるが、振り返ると、この瞳は「病院にいる母」を見てはいるが、今そこにいる母を見つめてはいない。対して母が「居なくなった」ラストシーンの瞳は、そこにいた母のことを見つめている。


アーダがラテン語教師であった、いやあり続けたことにも、マルゲリータが映画監督であることにも意味がある。ある言語を他の言語に「変える」ことは、そもそも自分の中の何かを言語で表すということは、自分の思う「現実」を映画として表そうとする作業にも似ている。アーダが孫におそらく最後に「教える」冒頭の言葉は、どこで何をするにしたって大事なことだ。
「イタリア人がラテン語を学ぶことの意味」は作中のアーダの口からも何度か語られるが、それがよく分からない私には、この映画の面白さが掴み切れていないはずだ。しかし言葉にまつわる面白い要素は他にも色々あり、イタリア語が分かっているのか分かっていないのか判然としないバリー(ジョン・タトゥーロ)の振る舞いや、彼の前でマルゲリータが心情を吐露してしまう場面などが心に残る。「現場」において時間に追われ、会話を訳したり訳さなかったりで当人達を惑わせるバリー付の通訳の仕事ぶりは、細やかなアーダとの対比にも思われた。


少し前に同じイタリアが舞台の「これが私の人生設計」(感想)を見たところだから、マルゲリータのような監督が労働問題を題材に映画を撮るのは当然だと思う反面、彼女が職場で単に一個の人間として接されているのを見ると、業界によって色々なんだろうけど、あんなこと、あるのかなと思ってしまう(バリーだけが「女」扱いするが、それは彼の間抜けさの表れとして描かれており、しかも驚くほど生々しさが無い)。誰の「現実」がどうだろうと、私はこのような映画は好きだし必要だと思う。第一に自分が気持ちよく見たいから、第二にフィクションが世界を牽引するから。