ユンヒへ


ユンヒ(キム・ヒエ)の娘セボム(새봄=新しい春/キム・ソへ)は、「きれいなものしか撮らない」と人間には当初カメラを向けない。この映画における世界は一見何となく、全てが美しいように見えるけれど、決してそうではないということだ。
過去に受けた仕打ちは時間が経てばどうにかなるのか。どうにかなどならないことが、ユンヒとジュン(中村優子)の日常や、ジュンの、彼女を慕うリョウコ(瀧内公美)への言葉、ユンヒの認めた手紙の文で痛烈に、はっきりと告げられる。映画はユンヒの「緊張しつつも希望を湛えた笑み」で終わるが、何か足りないように感じるのは、問題が当人や家族によってのみ解決に向かうからだろう。物語とはそういうものだが、この映画もまた、そのことに気付いた当事者でない私が今後何かすることで初めて意味を成す作品なのだと思う。

話は小樽に暮らすジュンがユンヒに宛てた、「毎回初めてのように書く」幾通目かの出せない手紙を、伯母のマサコ(木野花)が彼女に黙って投函するのに始まる。いいのだろうかと驚いていたところへ、韓国にてセボムがそれを読み、ジュンの「いい匂い」を吸い込み、母親を半ば騙す形でかの地へ連れて行く。
いつも傍にいて、よく見て、心から幸せを願う相手であれば、このくらいの強引さで物事を進めてもいい、むしろそれが必要なのだと言っている。例えばセボムが母をよく見ていることが、「手首をいつも揉んでる、帰ったら医者に行かなきゃ」に表れている(これと同じような指摘を過去に私も母にしたことがある、それは大きくないけれど手術に繋がった)。彼女の行動が正しく功を奏していることが、「(「友達」に)会ったの?」「『まだ』」との会話の後の、笑顔の無かったユンヒがはしゃぎながらの雪遊びに表れている。

序盤のユンヒの「迷惑を掛けてはいけない、借りになるから」という態度は、そうした「愛ある干渉」とは真逆にあるように思われる。自立とは周囲の力を借り、自身に余力があれば貸すことだとすれば、過去に抑圧され傷ついたきりで他人に心を開けない彼女が長きに渡り自立できない理由がここにあると言える。ただし、物語の終わりに自立への一歩を踏み出すユンヒだが、自分だけ大学に行ったことや結婚相手を紹介したことに対する後ろめたさも詫びも恐らく無く、今でも「お前はまた『気まぐれ』を」なんて言ってくる兄へはもたれかからない(韓国の映画やドラマでは、父親が不在の場合に兄が妹をいわば管理していることが多い)。証明写真とこれまでの現像の代金を渡し、行き先を告げずに去る。
一方でセボムのボーイフレンドのギョンス(ソン・ユビン)は、彼女の言うことやることに応える側である。身体的な接触も、ストーブの前での接近を除き彼女の側から行われる。そして「リメイクが好き、得意」。日本のフィクションでは「男」の恋人がこのように描かれることはまだ少ないから、観客は、冒頭二人が恋人同士だと思わないのではないか。今後はこうした、女性の意思をしかと受け止める男性の表象が増えて影響を与えればいいなと思う。