愛のように感じた


「17歳の瞳に映る世界」のエリザ・ヒットマン監督の2013年作品。

物語はまだ14歳のライラがもうすぐ16歳のキアラに手を取られて…というより手に手を取って先に行く/後を行くのに始まる。私には彼女らが、セックスしなければと思っていた頃の自分とするようになった頃の自分のように思われ(全然違うところも数多あるけれど)、同じ人間の表と裏のようにも全く別個の人間のようにも思われた。これは「17歳の瞳に映る世界」の二人の描写に通じるものがある。
ライラからすれば満ち満ちた性生活を送っているように見えるキアラだが、「女友達皆とできてもライラとだけはキスできない」というセリフは、彼女が性的な繋がりは「何か違う」と捉えていることの表れのように思われた。何をしてもしなくてもどうとでも繋がれるのが理想だけれど、特に若いうちはそうもいかない。

ナンシー関ウルトラクイズだったかをテーマにした文において「そのような服を着慣れていない女子のチューブトップ姿はすぐ判別できる」というようなことを書いておりずっと忘れられないんだけども、この映画もまたそれを思い出させる。文化や似合う似合わないの問題ではなく。
ライラが「そうなりたい」と思っているのはキアラの体の「使い方」なのであって、ライラだけがついていけないダンスの練習場面にそのことが顕著に表れている(その後、彼女はキアラに近付くため髪を同じ色に染める)。登場時のキアラの、サンダルを履いたままで塀の上を歩くという(私などからすれば!)離れ業や、痛飲したライラの口へ指を突っ込んでの吐き方指南などもそこへ繋がっていると言える(「天然コケッコー」の大沢くんしかり、自在に吐くことができるというのが「大人」…ある苦しみを知っている大人なのだと言っているフィクションがままある)。

セックスが他者に「身を任せる」ことだとすれば、「17歳の瞳に映る世界」は主人公がそれ以外の行為でも、というか真に他人に身を任せるようになれるまでを描く話、こちらはひとまずセックスでもって他人に身を任せてみたくてたまらない話だと言える。娘と父が互いの前で椅子でくるくる回って見せるのは煮詰まった関係を表しているようだけど、サミーがライラを遊具に乗せて自ら走って回してくれる時、彼女が面映そうな、しかし満足げな顔をするのは、あれがそういう意味でセックス手前の行為だからである。
結局ライラはセックスに到達せず、自身の体を荒い波に任せる。冒頭のキアラの「(年少ゆえの)生理不順だとセックスするようになってから困るよ(=妊娠の可能性に気付けないよ)」との実際的なセリフで示されるように彼女は子どもなのだ、子どもはセックスするものではないのだ、という映画なのだろう、これは。