リンドグレーン


映画は読者である子ども達からの手紙を開封するアストリッド・リンドグレーンの後ろ姿に始まる。カセットテープに吹き込まれた「なぜ子どもの心が分かるのですか、子どもだったのは昔なのに」の後に映るかつての彼女(アルバ・アウグスト)は16歳。教会で、帰りの馬車で楽しいことを空想し、家で家畜の世話を手伝い、ダンスパーティに出かける。子どもと大人が入り混じった時にある。

三つ編み姿のアストリッドが激しく踊ったり夜道で叫んだりする姿には見覚えがある。ものを書く女性の映画の冒頭にままある、いや私の中にもあった、人間を大人の女という型に押し込めようとする社会の抑圧への抵抗である。愛し合い子ども達をのびのび育てる両親の元において仲良しの兄グンナルにはその必要がなく、当時も数年後に彼女が我が子ラッセを泣く泣くコペンハーゲンに置いてきた冬も、変わらず妹たちとスケートをして遊んでいる。

(実際には、例えば「ピッピの生みの親 アストリッド・リンドグレーン」によると彼女はある時に子ども時代が終わったと気付き髪を切り友人らとジャズダンスに熱中するようになったそう、つまり子どもと大人が混じっていた時など無かったし、リンドグレーン氏と結婚して主婦になるとラッセがくたびれ果てるほど、子ども以上に日々体を使って遊んでいたという。この映画は前者は変更し後者のずっと前で話を切り上げている、そこに主張を見る)

社会に出たアストリッドには妊娠という重りがついてしまう。30以上も年の離れた編集長が彼女に好意を抱く切っ掛けとなるのは、妻に責められた憂さ晴らしに付きあわせたケーキとコーヒーの席での「流産は女性には耐えがたい痛みだろう」への「男の人にも同じだと思います」である。兄よりも門限が一時間早いことにつき母ハンナ(マリア・ボネビー)に「神の前では男女平等なはず」と訴えていた彼女の精神がここには表れているけれど、妊娠出産については決してそうではないことが、ひいてはそのようなことが世の中にはたくさんあるということが、この映画には描かれている。

当時、少なくともアストリッドの故郷において女性の短髪は忌憚されていたが、ストックホルムの秘書学校にやって来ると周囲は髪を短くした女性ばかり。それぞれがどのような心情、事情で髪を切ったのかと想像する。その中には妊娠し「父親の名を明かさなくてもよい」コペンハーゲンで出産した仲間もいた。この話題の切っ掛けとなる女性弁護士を始めデンマークにおける養母マリー(トリーヌ・ディルホム!)についても描写が表面的なのでよく分からないのが残念だが、死期の迫った彼女の手をアストリッドが握る場面は印象的だった。

この映画では鉄道がアストリッドの境遇を表すのに使われている。編集長が彼女に初めて任せる仕事は鉄道開通の取材で、大人の男に混じって汽車を初体験した彼女は「話に聞くアメリカと違いここでは景色を楽しむことができる」と見事な文章を書いて認められる。しかし彼女が実際に汽車に乗るのはスキャンダルを避けるためにストックホルムへ追いやられる時や隠れて子を産むためにコペンハーゲンへ移動する時、お金も時間も無い中で我が子と会うための行き帰りの時である。車窓など全く映らない。王立自動車クラブ(リンドグレーン氏はここの偉いさん)でのパーティで自棄になって飲みながら「車に乾杯」と叫ぶのが奇妙な符号に思われる。

こんなわけで、あたしはほんとはもう大きいのか、まだちっちゃいのか、わからなくなっちゃいます。まあ、ある人は大きいと思っていて、べつの人はちっちゃいと思っているんだから、きっとちょうどいいくらいの年ごろなんでしょう。(やかまし村の子どもたち)