パピチャ 未来へのランウェイ


とにもかくにも恐ろしい映画だった。映画ならでは、ではなく現実を反映した恐怖。

映画は主人公ネジャマ(リナ・クードリ)と友人ワシラ(シリン・ブティラ)がタクシーの中に自分達の世界を作ることに始まる。この夜から翌朝までは彼女達の領域はかろうじて保たれ、おしゃべりと音楽、それらが混ざったラップが生き生きと息づいている。学内にまで侵攻してきた「女の正しい服装」のビラとテロのニュースでそれが破られ、ネジャマは猛烈な勢いでデザイン画を描き始める。唇に針を咥えて強く黙る。これがレジスタンスなのだ。身なりを強制されることには底知れない恐怖を感じる。「問題は服装じゃない、偏見が女を殺す」。

道すがらポールを掴んでくるっと回ってワシラに「子どもみたい」と言われたネジャマいわく「やりたかったんだもん」。ワシラの方もスキップをしてみる。体を動かすというのは「やりたいことをやる」の最もシンプルな例、映像内での分かり易い形だから、よい「女性映画」にはよいその手の場面が出てくる。本作しかり。ファッションショーをやると宣言して皆とはしゃぐ場面の雷鳴に覚えた悪い予兆が、雨の中でサッカーをする次の場面で少し飛んでいく。

「チャンスを『やる』」と言って断られたボーイフレンドのメディーは「ずっとアルジェリアのトイレにこもってるんだな」と捨て台詞を吐く。振り返ればクラブのトイレ、サッカーをする海辺、父亡き後の実家、女にしてみれば「自然」な、元気で楽しい時間は男の目がないから可能なのだと言える。本作に限らず、映画において女だけで楽しんでいる場面を見ている時、男が蹂躙しに来るんじゃないかと薄ら怖くなることがある。現実生活のあれこれがそんなふうに予感させる。ここでは映画の中で実際にそれが起き、現実に還ってくる。

先にNetflixで公開された「エノーラ・ホームズの事件簿」でミリー・ボビー・ブラウン演じるエノーラが、兄のシャーロックが政治の知識を持っていないのはそのままでも自由に生きられるからだと看破していたものだけど、この映画に出てくる銃を持っていない男達も同じ。「神に従って生きてる」、「揉めたくない」、ネジャマへの付きまといを止めない仲間、友人の女性嫌悪による発言を聞き流すメディー(彼の「分かり合えないなら話すな」という態度の逆が、ネジャマの寮母への許可を求める行為)。役に立たないし味方じゃない。私達は時にそれから離れて生きたっていい。暴行から救ってくれる男に礼も言わず立ち去るのだってそれでいいのだ、あんな時なんだから。