キャシー・カム・ホーム/狩場の管理人



川崎市市民ミュージアムで開催中の「ケン・ローチ初期傑作集」にて観賞。上映される5本全てを見たいところだけど、予定があるため今回はこの二作のみ。初めて見たいずれも面白かった。いい組み合わせだし、どちらも「代表作」たり得ると思う。


▼「キャシー・カム・ホーム」(1966)は、「行き先は着いてから知らせる」と故郷を後に都会へ出るキャシー(キャロル・ホワイト)に始まる。ヒッチハイクした車に乗り込む後ろ姿の子どものような足取りに目を奪われるが、終わりに車の行き交う音を前に視線をさまよわせ立ち尽くす彼女の顔のアップは、まさにその時に流れるSonny & Cherの「500 Miles」の歌詞の「500マイルも遠くに来た」の通りである。


・冒頭しばらく、キャシーが独身でお金も無くはなかった時には、音楽が、まるで詰め込まれたように、しかしきっちりと鳴っているが、夫となるレグとのデートの際に流れるThe Contoursの「Do You Love Me」の一節を最後に消える。冒頭のテレビについてのやりとりを最後に、彼女の暮らしにはテレビもレコードプレイヤーも何も出てこない。終盤施設に面会にやって来たレグに「何をしてる?」と聞かれるとこう答えるのだ、「することなんて無い、一日中ぼーっとしてる」。


・結婚したキャシーとレグは「集中暖房に二重窓、住人は高級な感じ」「だけど子どもはダメ」の集合住宅に腰を据えるが、妊娠が分かった彼女が「違う夢を抱き始めた」あたりから、言うなればきな臭い匂いが立ち始める。家を探すも「高額な修理費用が用意できなければ安い家も買えない」、レグが仕事中に事故を起こすと「車は保険に入っていなかった」などと判明するくだりで「現実」の匂いを感じていたら、ここからこの「ドラマ」には、実際の統計やインタビューなどが折に触れて挿入されるようになる。こうした手法について、ローチ自身は「よく分からない、(問われた時に)うまくやったと言ったこともあれば、うまくいかなかったと言ったこともある」と語っている(「映画作家が自身を語る ケン・ローチ」1998年)。私が今、見た感じでは、新鮮で効果的だ。


・中盤「トレーラー・スラム」に引っ越してきた日、キャシーは当初汚いと尻込みするが、レグが点けた火が消えると子どもが笑うところで、彼女の「沼地に風が吹くとこの中が快適に思われた、不思議なものだ」というナレーションが入る。階段を徐々に降りている時でも立ち止まれば快適さを感じるものだ、下に地獄があろうと。このくだりで挿入されるインタビューには、ここでの暮らしが気に入っている者達も何人か出てくるが、見たところいずれも子のいないらしき年齢である。そして「親が焚き付けた」んであろう、付近の住宅に暮らす子供達によるとされる放火が起こる。


・施設に忍んできたレグとキャシーのベッドシーン、あんなに鮮烈なものを見たことがない。ベッドの中で抱き合う二人、夫の下で嗚咽する女の顔、というだけなんだけども。セックスする時というか、男とベッドに入って抱き合う時の女の気持ちを、私がいつも想像するからだろう。鮮烈と言えば、少し意味が違うけど、「ドアを開ければ他人の洗濯物」の下をゆく棺桶なんてのもすごかった(しかも棺桶が引っ掛けた紐で通りすがりの杭が揺らぐ)。


・見ながら「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」をふと思い出した。作中のニコラス・ウィントンによればキンダートランスポートの受け入れ先になってくれるよう各国に頼むも「受け入れてくれるのがイギリスしかなかった」そうだけど、それから30年経っていないんだなあ、いや30年は長いなあと。すると施設での食事時、入居者が向かいに座った「黒人」に「元の所へ帰れ」と言い募る場面と、それに次ぐ「有色人種のせいでとはナンセンスだ」という説明が挿入される。そうじゃないのだと。


・このくだりを始め、それにしても、陳腐なことを言うようだけど「今」との重なりを感じずにはいられなかった。レグは友人に「そんなにしょんぼりしてたら同情してもらえないぞ」と声を掛けられ、最後の立ち退きを迫られたキャシーは役場の職員に向かって「あなたのところに空き部屋はない?半日でも居られる場所はない?」の後に暴言を吐き「言葉を慎んでください」などと言われる。職員達は「彼女は反抗的だ」と評価を下す。今の日本のむかつく問題と変わらない。


・最後に出る文章が「西ドイツは戦後、イギリスの二倍の住宅を建設した」というのも強烈だ。現在ではドイツは男女格差指数だってG7中トップの13位である。


▼「狩場の管理人」(1979)のオープニングからしばらく、映画やドラマを連続して見た時にはままあることだが(裏を返せば続けて見ないとそうならないということに他ならないが)、「キャシー・カム・ホーム」に出てきた人々はどうなったろうと気になり、「こちら」の世界に入り込めなかった。子ども二人が学校に行くまでの年齢に無事育ち、朝、火にあたり、母親の作った温かい食事をとっている。「恵まれている」ように思われてしまう。しかし後にやはり繋がりを感じることになる。


・貴族の私用地の管理を任されている主人公ジョージは、何も書かれていないメモ帳を手に、慣れた様子で「不法侵入」の少年二人を追い詰める。印象的なのは「獲るのを禁じられてはいない」卵を二つ、脱いだコートの下に隠してある彼らが浮かべる笑みで、ここにとてもケン・ローチらしさを感じた。それは近年の「天使の分け前」にも在る。「何」の害もない、野での遊びが禁じられる。「動物を殺す」ことよりも「不法侵入」が悪い。こうした「支配」に対し、町の男は「かつて住んでいた人々を王が追い出して自分の物にして臣下に分け与えたんだ、元は誰の物かってことだ」と論じる。


・ジョージは町の男達に「何かあったら(公爵に雇われている)俺が面倒を見てやる」とうそぶくが、仕事仲間の前では「いつまでもこんなことをしていていいのか」と漏らす。妻が「(山奥に暮らすことについて)10年前は素敵かもと思った、こんなに退屈だなんて分からなかった」、「怪我でもしたらどうするの」「公営住宅への入居待ちは大勢いるし」と愚痴ると、「解雇したら路頭に迷うんだから、公爵はそんなことはしない」と返す。息子の担任を「大学を出てすぐの奴なんだろ」と蔑み、かつての自分の労働の過酷さを語る姿が心に残った。彼はそのような、長時間拘束され怪我の危険性も高い仕事を辞めて「狩場の管理人」になったわけだけど、その時代のそういった労働について知らないと、この映画はよく分からないのかもしれない。終盤の賃上げに関する彼の行動も、そういったことに関係しているように思う。


・夫婦が言い合う場面で、キジを追い込む小屋を作ってくれと頼まれた妻が「昔と今は違うんだから、手伝いを雇って」と返すのに、二人の「昔と今」のことを言っているのか、それとも例えば日本では「昔」は専業主婦など存在せず嫁が家業の一員だったが「今」は違うというような意味なのか、どちらだろうと思っていたら、終盤、狩りが行われた晩に、妻がおそらく仕事仲間の妻と共に台所仕事をしている。ジョージいわく「(奥さんもパーティに呼ばれたのかと聞かれ)仕事の足しになるかと連れてきた」。帰宅すると夕食用にメモと既製品のパイが置いてある。そういえば「キャシー・カム・ホーム」で、キャシーは「冷凍食品を出すと夫が残す」と口にしていた、それは自由に使える台所が無いせいだった。料理を作れなく、あるいは作らなくなるのにも色々理由がある。思えば映画は料理の火から始まるのだった。