トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング


「ネッド・ケリー」というと、虐げられている者達にとっての家長とは、という考えがふと浮かぶ。国が後ろ盾にならないのだから家の中ばかりを向いていられなかったはずだ。アイルランド女のエレン(エシー・デイヴィス)は立派な男とは「力を世界に見せつける」ものだと言う。どちらも原作は未読だけれど、2003年の映画「ケリー・ザ・ギャング」は家族を守るため必死になった末に「女王へ宣戦布告」する道を歩んでいたのが、こちらは母親が息子を、いわば神から預かっている間ずっと「イギリス人を痛めつけるアイルランド男」=シーヴの息子として教育した結実の物語だった。

エレンが死んだ夫から脱がせた靴を息子のネッド(少年時代をオーランド・シュワート)に履かせる時、真に彼女が彼を家長に据えたことが分かる。それは映画の終わりに彼の真っ黒な足の裏を私達が見る時まで続く。この映画では靴を履く者が家長であり、外反母趾の足を大いにさらして眠りこけるオーストラリア男のハリー・パワー(ラッセル・クロウ)はそれを下りた存在だと言える。エレンにとって彼は息子にシーヴに必要な反抗心、具体的には盗みや殺しを教えるための男だったと考えられる(しかも、「二口女」のまさに逆で、彼は物も食べない、都合のよい存在なのだ)。一方で裸足でいるわけでも靴を履いているわけでもない、靴下の足の裏をこちらに見せつけるイギリス人の警官フィッツパトリック(ニコラス・ホルト)はどこにも属さない曖昧な存在であると言える。

赤いドレスで馬を駆る男は「実際」なのか誰かの頭の中の光景なのか分からないが、この映画はネッド(青年時代をジョージ・マッケイ)が我が子に向けて「父親を誤解しないよう」綴った物語を核としている。彼は父親につき、イギリス人の警官オニール(チャーリー・ハナム)に「嘘」を吹き込まれ、弟ダンが聞いたという母親の話は自身の不在で逃した。それで自分の場合は書き残すのがいいと考えた。彼が「国語教師」と相対する場面が長丁場で奇妙なのは、一番の肝のところを突かれた場面だからだろう。ともあれ母の教育や息子の執筆の熱意を描くこの映画は、俺ら決してぼやぼやしてないぞ、という話に私には思われた。同時にそれらがハリーの忠告通りあっさりと奪われることも描かれているけれど(その点ではこの映画は、公開中の「グリード」に通じるところがある)。