1秒先の彼女


お話的には二つの要素が面白く絡み合っている。一つは予告から落語の「長短」をイメージしていた、「ワンテンポ早い」と「ワンテンポ遅い」の組み合わせ。もう一つは、作中で言う「恋が記憶を作る」…物(記憶)を失くしてしまうのは重要じゃないからだ、恋をしている方が覚えていても相手は覚えていないかもしれないのだ、という主題。しかし現実を顧みると嫌がらせされたことの方がよくよく頭から消えなかったりするものだから、見ていて釈然としなかった。そんな呑気なことだから「痴漢」をキャラクター扱いできるんだ、などと考えた。

グアタイの回想において、高校時代に校門でシャオチーを待ち伏せして写真を撮るも、映画冒頭よりのあれこれから予想できるように、そこには通り過ぎる彼女の長い髪しか映らない…というカットが私には異様に美しく思われた。後に判明することに、バレンタインデー(七夕情人節、本作の原題は「消失的情人節」)にグアタイはある状況下でシャオチーと写真を撮りまくるが、その、彼にしてみれば待望の瞬間だった数々の写真は先のものとは比べ物にならないほどつまらなく思われて、なぜか涙がこぼれてしまった。すれ違うものならすれ違いこそが真実だという無情を感じた。

物語の終わり、二人はそれぞれ努力して(何せあのシャオチーが一年!待つんだからね)そのすれ違いを埋めるのだった。楽しい映画だったけれど、最後に文が出る…「自分を愛そう(ここまでは映画の序盤に出るのと同じだけれど、後半が変わって)愛してくれる人がいるから」。誰かの大事な人だから、という物言いのおかしさへの気付きが進んでる今、これはないと思う。ここがずれているから所々引っ掛かったんだろう。