フェイス・オブ・ラブ



予告に遭遇することも無く、宣伝文だけで見に行った。「海」と「女」というオープニングの時点で薄々感じてたんだけど、この映画からはどうしたってシャーロット・ランプリングの「まぼろし」を思い出してしまう(でもってあちらが「名作」だから分が悪い・笑)
昔のオゾンの映画は、主体以外はまさに「まぼろし」であるという意味で、私にとってとても「少女漫画」的であり、そこが好きなんだけど、この映画も、アネット・ベニング演じる主人公にとっての「世界」が延々と描かれるのが面白い。


アネット・ベニング演じるニッキーの前に、5年前に水難事故で亡くなった夫ギャレット(エド・ハリス/初登場時「マリファナを持ってきたんだ」と言う時の顔が何気にすごい・笑)にそっくりのトム(エド・ハリス二役)が現れる。愛した人に瓜二つの人間が現れるといえば、「映画的記憶」からすればどうしたってそれは「サスペンス映画」(というか「めまい」)であり、この映画も冒頭からしばらく、サスペンスの様相を放つ。「駐車場」や「美術館」といった舞台、車の走行音や草木の擦れる音などのせいか。ニッキーの職業が「売り家を人が住んでいるかのように装う」というのも何やら薄ら寒い。
でもって、そのような映画には「対象」である存在、すなわち主体性を持っていなかったり主人公にとっての「謎」を秘めていたりする存在が登場するもので、昔の映画では大抵それは「美女」の役なんだけども、この映画では美爺のエド・ハリスがそれを負っている。後ろ姿が印象的だったのが、彼も「見る」側であったことが分かるというラストがいい。


なかなか「甘美」な映画でもあった。作中「鏡を見る度に嫌になる」「こちらを見ている老人は誰?ってね・笑」などと老いを嘆くやりとりはあるけれど、二人は「愛」にだけ生きられる状況なのだ。ニッキーの子はほぼ巣立っており、どちらも地位や金に困ることなく、ただ愛だけに邁進できる。冒頭娘(の「恋」)を散々心配していたのが、自分が「ベッドイン」すると掛かってきた電話にもそぞろなのが可笑しい。終盤の海から翌朝のくだり、エド・ハリスの瞳に溜まる涙には結構しびれた。
冒頭から「愛し合う二人」の回想シーンが何度も挿入されるのと同時に、同じ二人が演じる、素知らぬ顔ですれ違うなどのシーンが在るのにも、どこか「意次元」的な、知り合う前にタイムスリップでもしてきたかのような妙な面白さがあった。


トムが元妻の家の前に車を停めて、互いの顔を見ながら携帯電話で話をするという場面がよかった。ああいう関係って貴重だろう。