リヴァプール、最後の恋


元よりグロリア・グレアムに似ているアネット・ベニングの演技があらゆる意味で完璧で、全てのセリフでもって常にジェイミー・ベル演じるピーターを誘惑しているんだけれども不自然じゃなく、こういう人っているかも、私もそうなるかも、よくある恋物語だと身近に感じさせる。それを受けるジェイミー・ベルにはこれこそ真の「助演」だと思わせられた。彼の母に「リトル・ダンサー」でコーチだったジュリー・ウォルターズ、ベニングの母にヴァネッサ・レッドグレイヴという最強の布陣。

冒頭グロリア(ベニング)に「あなたは役者でしょう」と言われ「そう、ふりをしてるんだ」と返すピーター(ベル)が数年後に舞台で演じているのは「看護師」だが、ふりであって実際は違うから「ぼくら(家族)は素人だから彼女の世話ができない」というのが面白い。一方のグロリアは自身が主役の舞台「レイン」について「セックスに罪に救済、いつものグロリア・グレアムの役」と軽口を叩く。

語り手(のようには描かれないがこの映画が依っている著書の作者)であるピーターはこの物語のクライマックスを、邪険にされた自身に「舞台じゃないんだぞ」と叫ばれながらもグレアムが演技で彼を騙すところに置いている。真実がどうであろうと彼女はまず女優だったと言っているわけだ。更に彼が「ロミオとジュリエット」の1幕5場、「手に許される行為を唇にも」から「二人にとって愛は無限」までの共演を彼女への最後の贈り物にすることから、これは恋とはこんなに素晴らしいのだと観客に訴えている映画であると分かる。

出会いのロンドンから海を望むカリフォルニアのトレイラーハウス、クライスラービルを望むマンハッタンのアパートと落ち着かなかったグロリアが、最後には時にカモメの、時に子どもの、時に激しい雨の音が聞こえるリヴァプールの何の変哲も無い家のベッドに潜り込む。妙な言い方だけれども、彼女は健全すぎて居場所がないようにも見えた。健全というのはこの場合、これまた変な言い方だけれども、世の中が真に平等である時「セクシー女優」はこう生き長らえるのではないかと思わせるという意味である(尤もまだ50代だし、実際にはそれ以上生きた人が多いんだろうけども/真に平等な世において「セクシー女優」が存在するのかというのはさておき)。

ピーターの母ベラは「スターの美貌は永遠」と口にするが、あながち間違いでもない。人は記憶も動員してものを見るのだから。スターがセクシーに輝いている映画を当の本人の隣で見た後に愛し合う時、もしも私がそうした体験をするなら、そこに何を見るだろうか。俗っぽいことを言うようだけど…って、このように陳腐にも思われることを体に染み渡らせる映画というのがある、これはこれで素晴らしいものだ。