ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋



この邦題じゃ、人妻ウォリスとエドワード8世のいわゆる「王冠を賭けた恋」の話だと思っちゃうよなあ。私もそれを期待して、裏切られたけど、違う喜びを得られた。
主人公は現代のニューヨークに暮らす有名医師の妻ウォリー(アビー・コーニッシュ)。作中、ウォリス・シンプソンとエドワード8世は彼女の幻想の中にある。


冒頭、素晴らしいタイトル「W.E.」と共に不穏なざわめき、ラジオの音声、ここでもう惹き込まれた。数あるダンスシーンはどれもいいけど、一番最初のそれからもう、胸がじんとする。「お話」に依らない、ただの「映画」の魅力…ってのも変な言い方だけど、それを十分備えている。
マドンナの前監督作を観た時にも思ったんだけど、無機質というか、血が通っていないようでありながら、力強い、独特な感じを受ける。歩く女を後ろから捉えた場面、小物の使い方、ちょっとした「アイデア」を試してみたとでもいうような画の数々、それから「音」…人々がタバコを吸ったりお酒を飲んだりする時の音、ウォリスが「ねこふんじゃった」(英米じゃ違うタイトルだけど)を弾く場面に入る際の「不協和音」、全てが「思い付き」のようでいて、しっかり根付いて「映画」になっている。


本作の主人公は日本で言うところのセレブ、彼女が幻想するのがウォリス・シンプソンなんだから、ほぼ全編を通じて豪奢なものであふれてるんだけど、その視線はとてもクール。ファンタジーや憧れ、変な言い方だけど「価値」すら感じられない。女の身の回りの、衣装は勿論、家具や薬など、全てがただそこにある感じ、それが奇妙に魅力的に映る。
ウォリーに「女」としての、つまり外見の魅力が無ければ、エフゲニー(オスカー・アイザック)との新たな関係は生まれず、あのまま寝室にうずくまってたんじゃないか、と思わないこともない。でも「女」の記号のこうしたクールな扱い方、ウォリスの「大事なのは顔よ」のセリフなどから、それはそれとして自分で御していこうというか、そういうメッセージを感じた。


鏡に向かい装うウォリーの前に現れたウォリスはその美しさを誉め、「私は肉体の魅力に欠けた女、でもまず着こなしが上手いの、部屋に入ると皆がこっちを見るわ、夫も誇りに思ってた(この「夫」とはアーネスト?それとも夫「達」?聞き逃した)」とアドバイスをする。このセリフはウォリーの心が生み出したものなので、彼女は「自分は美しいのになぜ愛されないのか」と思ってるのかもしれない。
こちらとしては、この場面の後はそれまで以上に、ウォリスの着こなしやその「魅力」について気に掛けながら見ることになる。こういうふうに、いわば「観る手がかり」を提供してくれる映画っていい。


本作には妙に古臭いところも多々ある。ウォリーの「妊娠」に対する態度やお馴染みの「妊娠発覚」場面。そもそもウォリーと夫の関係が「ステレオタイプ」にしか感じられない。「そういう二人」なのかもしれないけど、物語に出てくる女のすることは「現実」に影響を及ぼすと思うから、見ていて辛かった。
終盤、ウォリスの書簡を所有するモハメド・アルファイドと会うことに成功したウォリーが「(王冠を賭けた恋、について)ウォリスの立場から見直すべき」と提言すると「それは新しい視点だ」と返されるのにも驚いた。私がウィンザー公爵夫妻に興味が無いからかもしれないけど、そんなことが「新しい」とは知らなかった。尤も単に彼が「そういうことを言う人」である、もしくはいなされただけかもしれないけど。


ウォリー役のアビー・コーニッシュは、私の記憶には薄いんだけど、調べたら近年のお気に入り映画「ブライト・スター」の主役だった。あのぱつぱつ具合はマドンナ好みだと思う。オスカー・アイザックとの、身長差があまりない組み合わせが妙にエロい。
ウォリス役のアンドレア・ライズブローは、「一般的」には可愛くないけど目の離せない猫といった感じ、ピアノを弾く姿が素晴らしい。エドワード役のジェームズ・ダーシーはたまにベネディクト・カンバーバッチに見えることがあり、そう気付いた途端、こっちの方が美形なのに、何か物足りない感じがするから不思議だ(笑)


最も心に残った言葉は、ウォリーが下町をさまよう場面に流れる「頭はいつも、物事を正当化しようとする…」というもの。ウォリスの声なので、彼女の文章なんだろうか?私にとってこれが本作の「テーマ」だ。自分で自分を欺いちゃいけないってこと。
最後の「ダンス」シーンも本当に素晴らしかった。ウォリスが実際に書いた文章の、ある箇所によって、夫に不満もあったことが分かる。お互い様だったかもしれない。そういう二人でも、ああいう時間を持てる。それがウォリーの幻想であっても。