バベルの学校



フランス、パリ10区の中学校の「適応クラス(Classe d'accueil)」の一年を追ったドキュメンタリー。とても面白かった。


オープニングは黒板にフランス語で自己紹介の文章を書く手。横から間違いを指摘する別の手が入り、最初の手がその箇所を手袋で消して直す(あの汚れた手袋はそのためのもの?彼らは黒板でもホワイトボードでも「板消し」は使わない)。母国語で「こんにちは」は何と言うか教え合い、言い合いをする生徒達。それから幾つかの言語で、最後にフランス語で「La Cour de Babel」(バベルの学校)とタイトル。


作中の映像の半分以上が、子ども達が喋る顔のアップ。まずは色んな顔が見られるのが面白い。彼らが作る映画のキーワード「共通点」「違い」がそこにある。加えて映像に「直接」現れているわけではない(次元の違う、とでも言おうか)「共通点」は、彼らが皆「不慣れ」なフランス語で話しているということ。何がどう「処理」されているのか想像するのが面白い。尤も日本語以外は英語も覚束ない私には想像のつかない、「高次」な何かが行われているわけだけども。ともあれあああいう映像を撮れるとは、監督はよほどクラスに「馴染んで」いたんだなあと思う。
教室で、マフラーをいじりながら(この彼は話す時も聞く時も大抵口元を覆っている)、髪をいじりながら話す子がいる。日本の教室なら注意されそうなこれらの行為が、大きな身振りと同じような扱いをされているように見える。対して「プールに入る時は帽子を被る」といった「規則」は絶対に守らなければならない(ただし「丁寧に誰かに頼んで貸してもらえば大丈夫」)


映画がしばらく進んだところで、彼らが属しているのが、他国から移住してきた、フランス語を母語としない子ども達のための「適応クラス」だと分かる。そこに居ることについての様々な気持ち(本当に、あまりに様々)が語られる。やがて保護者面談や「映画の撮影」において、それぞれの移住の事情が語られる。ネオナチの迫害や親戚の暴力から逃れて来た子もいれば、「ソマリアに戻れば女性器を切除され、生理が始まれば結婚させられるから」と周囲の大人の尽力でやって来た子もいる(「デザート・フラワー」も本作と同じく武蔵野館で見たんだったと思い出す、原作にもショックを受けたけど、映画も忘れられない)
ちなみに「先生」の顔は途中まで殆ど映らず、面談の際には子ども達に向けられたカメラの隅に眼鏡の素敵なつるや笑顔の際の目尻のしわが見えるだけ。これがとてもいい、学校の先生の目尻のしわっていいものだ。


「学校ではもっと話をしないと」と言われた中国人の母親が「中国では小さな女の子も男の子もあまり話をしない」「うちに居る時は一人で留守番をしているから話す機会が無い」。確かに「一人」じゃ言葉は上達しない。先生が他の保護者に向かって言うように「昼食だって家より学校で取る方がフランス語の勉強になる」。しかし中国人の彼女が、新たにやって来た中国人の男の子に代わりに話してもらっても、面談の内容のためなのか、先生は彼女に注意したり無理強いしたりしない。
社会福祉士の「助言」により突然転校することになった生徒との面談のくだりでは、学校が何かをしてやれるのは生徒が学校にいる限りなのだということがよく分かる。だから先生は最後の最後まで懸命にアドバイスをする。寂しがる友人達の言葉に顔を覆った、転校していく彼女の手がふっくらしているのに泣けてしまった。