スクールライフ パリの空の下で


Netflixにて観賞、2019年フランス制作。

オープニングの、校長が注意しなければおしゃべりの止まない職員会議、同じ朝、同じパーティ、職員も生徒も同じようなものだと思わせておいて、学校においては生徒の側だけが厳格なルールを課せられている。校門を一歩入れば携帯電話を使わない、フードやサングラスやイヤフォンを装着しない、走らない、これらを注意して守らせるのが学校の職員のしじゅうの仕事である。彼らを分けるものは一体何なんだという話に私には思われた。もし線引きするならば、大人の側が何らかの責務を負って自分を定義づけるためにせねばならないのだと。

その答えは、カウンセラーのジブラ(ジタ・ハンロット)の「あなた達は私を優しいと言うけれど優しいんじゃない、それが私達の役割だからそうするのです」に窺える。生徒に役割はないが働く大人にはある。だから仕事に就いていながら役割を果たさない(どころか生徒を利用する)者は去らねばならない。対してブファラ先生などは授業がうまいわけじゃない、一人も漏らさず救おうとするわけじゃない、でもふざけず嫌がらず!仕事をしている、ちゃんとした先生だ(私は「オーケストラ・クラス」のやはり担任、ブラヒミ先生を思い出した)。

話の中心に据えられるのは、新人カウンセラーのジブラと生徒のヤニス(リアム・ピエロン)。見ているうち、二人には「地元の刑務所に面会に行っている」という他にも共通点があることが分かってくる。学校に合わない者もいようが、彼らは学校を有効に使うポテンシャルを持っているということだ。一部の職員が「口答え」と見做すヤニスの言動を、ジブラは「反抗ではなく討論したいのだ」と理解する(実際彼女もそういうタイプであることがパーティの場面などから分かる・笑)。映画は二人が学校で生き始めるまでを描いていると言える。

ラストシーンで退学を免れ特別クラスの教室で新年度を迎えたヤニスからカメラがぐっとサン=ドニの街へと引いていくのは、彼が自分の退学に関する職員投票の席で訴えた「この街自体に問題が多いのに、僕のような問題児だけを隔離しても意味がない」を想起させる。ブファラは「それは違う、外国語を選択しない生徒を集めたクラスだ」と真面目に返すが(そういう先生なのだ、彼は)、ヤニスの答え「勉強できない生徒が外国語をとるわけない」には、そういうこと、すなわち明言せずに行われている差別がいかにこの世にあることかと思わせられる。