パピヨンは自分の血の手形とかサインとか、独房に残さないだろ!と思いながら見ていたら、最後に示される写真の数々から実際そうしていたらしきことが知れ、かつての映画がいかにダルトン・トランボによって作られたものだったか分かった。私はそれが好きだったんだけれども。
73年版「パピヨン」で面白いのは、悪魔島での生活が一見いかにも支障なく見えること。ドガなど(妻に「裏切られた」せいもあるかもしれないが)それなりにやりがいを見出して暮らしている。でも自分の意思によるものじゃないから、他人に管理されているから、パピヨンは逃げる。そこが好きだった。でも今回は一見して支障がある上に椰子の筏が砕けるなどの恐怖も無いから、その要素が薄まってしまっている。
ちなみに73年版の悪魔島のことを思い返した時に連想したのは「この世界の片隅に」。漫画を読んだ時、それはそれで楽しそうな生活だと思いそうになったものだ(映画が公開された後、実際にそういう感想も目にした)。でもそれは間違っている、やっぱり。
73年版は結局パピヨン一人の話だと私は思っているんだけれども、今回の映画はラストにはっきりセリフで言われるように「あそこにいた全ての男達の物語」になっていた。その中には勿論ドガもいて(73年版の彼は脇役だったと私は思う)、それゆえ最後に彼はパピヨンが逃亡したいのと同じように自分も違う類の欲求を持っていると口にするのだ。
チャーリー・ハナム演じるパピヨンが彼のそういう気持ちにその時まで気付かないというのが面白い。マックイーンとホフマンならそんなことはない、口にしなくても通じ合っていた。でもはっきり口にするのが「今」なんだと思う。言わずとも、なんて映画ならそりゃあいいけれど、フィクションは現実に影響を及ぼすから。