ヤング・アダルト・ニューヨーク



ノア・バームバックの作品は苦手だったけど、これは好き。作中のコーネリア(ナオミ・ワッツ)のように「彼はassholeだけど作品はpretty good」とは、私は言わないけど(笑)


オープニングのイプセンの文章への答えになっている、エンディングのポール・マッカートニーの「Let 'em In」もいいけれど、後にジョシュ(ベン・スティラー)いわく「乗り込むところを想像してた、とんだヒーローだったけど」の時の「Nineteen Hundred and Eighty Five」もなかなかキュートな使い方(「My little lady gets behind.」という歌だもの)。
ちなみにこの映画は、イプセンの頭とポールのお尻のそれぞれ内側にボウイの「Golden Years」を挟み、そのまたそれぞれ内側に、一見同じふうに並んで腰かけているが「変わったかもしれない」夫婦の姿を配するという形を取っている。


例えば女性誌の「恋も仕事も」といった文句を見る度に、そんなことを言うから恋と仕事を「別」に考えねばならないという「常識」が出来てしまうんじゃないかと昔よく思ったものだけど、この映画も、何も分けなくたっていいような事を執拗に対比させて描く。世代、子どもの有無、それから男と女(「ものづくり」をする男と、しない女)。コーネリアの「ヒップホップ・ダンス」のあからさまな滑稽さ、ジョシュが守る映画製作のルールなどもその延長線上にあるように思う。二人が呼ばれなかったパーティの入口での一幕は、分断を意識する者は分断されるということを表しているようだ。
始めの内、なぜ「こんなこと」を映画にするんだ?と思いながら見ていたけれど、要するにこれは「こんなこと」にこだわってしまう人の話であって、それにはベン・スティラーがぴったりなんだな。ベンがこの映画を「底上げ」してると思いきや、最後には「だから彼なんだ」に落ち着いた。


印象的だったのは、祝賀会のテーブルでの、ジョシュの義父役のチャールズ・グローディンのカット。彼が喋る度にその上半身が映るだけなんだけど、奇妙に恐ろしく見えた。落ち着き払った語り口や佇まいは、以前のジョシュのセリフにあるように「神のよう」でもあった。「客観なんてものは無い、だからたくさん映画を作って、世界を明らかにするのだ」と主張する彼は、清濁合わせのみ、「容赦が無い」。
しかし神といたって幸せにはなれない。かつてはコーネリアいわく「パパのようだった」が、「容赦の無さが無い」ために行き詰まるも、今や「妻とお父さんを守りたい」と宣言するジョシュは、「もう44歳だから」なんて口にするつまらなさはあるにせよ、神よりも優しく素晴らしい。これは、冒頭「すれ違って」いた夫婦が、最後のコーネリアの「悪魔が放たれた」にジョシュが「彼は悪魔じゃない、若いだけなんだ」と返す、妻は夫に思わずキスをする、そんなあなたと一緒にいたいと思う、そういう話だと受け取った。二人がそれでいいならいいし、私もそれでいいと思う。