ニーナ ローマの夏休み



バカンスで人の出払ったローマが舞台というので、東京で見るなら一般的なお盆休みの内がいいだろうとその間に観賞…といっても、新宿は全然人でいっぱいだったけど(笑)
知人の留守宅を預かることになったニーナが、ローマの郊外・エウルで過ごすひと夏を描く。監督は建築家マッシミリアーノ・フクサスの娘だそうで、大規模建築が立ち並ぶほぼ無人の街はSF映画の趣き。


オープニングは女のへそ、というかニーナが素肌に服を纏うのを前から後ろから見せる(こういうのを見るといまだにドラマ「悪魔のKISS」を思い出してしまう・笑)。スクーターで目的地へ向かう彼女の後ろ姿の遠景、横からのショットになると、兵馬俑と向かい合った「妙」なカタチ。この時点で、「画」を見せる映画なんだと分かる。その後、アパートに着いた彼女が階段を上る場面から、全編通じてフェリーニのようでもある。私にとって問題なのは、フェリーニがあまり好きじゃないってこと(笑)



「この町には生活感がないわ」
「君だってそうだ、現れたり消えたり…」


本作が「物語」を紡がず「画」を示してくるのは、彼女の暮らしがその場限りで連続性の無い「画」のようだから、とも言える。でも「画」のような暮らしを「画」で見せるのってつまらないなと思ってしまった。
ニーナの日々は「同じことの繰り返し」、といっても「食」についてはケーキをホール丸ごとやお菓子を焼き型から直接など甘いものしか口にせず、「運動」についてはやたらスピードを上げて走ったり腹筋したりと息せき切っており、その内容は落ち着いてはいない。そのうちチェリストの美男子ファブリツィオと出会い心惹かれ「告白」までするが、「表面的」には…ニーナにとっても映画にとっても、彼とのことは、散歩中の新たな立ち寄りスポットのような感じで他の物事と同等に扱われる。これはとても「正しい」と思うけど、今はもう、世界をそういうふうに見られない私としては、そういうやり方は少々苦痛に感じられた。


アパートの管理人である少年エットレだけが、私には輝いて見えた。彼とニーナが熊の頭を被ってふざけあう場面の最後、彼が彼女にしっかと抱きつくのがとてもよかった。この映画の全てが制御されている(のが「分かる」)中、その瞬間だけ、もっと言えばエットレを演じている少年の肉体だけに、何か逸脱したものを感じたから。「『普通』の生活が怖いの」というニーナに「(『普通』を選んだとしても)君はいつだって『特別』さ」と告げる役を彼が担っているのは大きい。熊の頭の場面だけじゃなくこちらも、ニーナの幻想ともとれるけど。彼が彼女に、執拗に「(お菓子ではない「ちゃんとした」)食べ物」を与えようとするのも印象的だ。
ラストシーンで、ニーナは彼に「歩きじゃちょっと遠い」ところにある自宅の鍵を渡し「いつでも来て」と言う。アパートに勝手に入られた際「(私の他に)誰かいたらどうするの」と怒っていたことを考えると、まだしばらくは、誰も受け入れないってことだろうか(それとも単に、留守の間に来てもいいよってことかな・笑)


「9月」に中国留学を控えたニーナは中国人の先生に書道を習っている。硯は使わず(イタリアでは手に入らない(という設定)のため?)ヨガマットを入れるような筒丈のバッグで道具を持ち運んでいるのが面白い。そのアプローチの仕方は私の身に付いている「書道」のそれとは程遠く、「文字を書く」ってどういうことだろう?とふと考えてしまった。