悪魔祓い、聖なる儀式



「悪魔祓いに勤しむ神父(達)を追ったドキュメンタリー」ではない。私としては、映画の最後に示されるル・モンド紙の文章を先に持ってきてほしかった。これは「悪魔祓いの需要が急激に増えている」現在の世界をかいつまんで見せてくれる作品である。英語の同時通訳が用意されている「エクソシスト養成講座」の昼食時間、ニューヨークから来たという神父は「皆が癒しと救済を求めている」と口にする。


映画は簡素な椅子に座った女性に神父が聖水を振り掛け祈りの言葉を唱えると彼女から「悪魔」の声がするという、「悪魔祓い」に始まる。タイトルの後、色とりどりの花が飾られた墓地、教会の前で皆で日食を見る場面を経て、神父との面会のために集まる信者達の様子が映る。予約を受け付けるのは遠方からのみという条件について、朝から来ていた者が文句を言う。ミサの後、少しでも神父と話そうと粘って帰らない者もいる。


こうした現状の後に見る「携帯電話での悪魔祓い」は、予告編では「オチ」になっていたけれど、決して笑えるものではない(予告がダメだと言ってるんじゃないよ、あれを見て面白そうだと出向いたんだから)。笑えるものがあるとすれば、例えば「悪魔に憑かれた人」を目の前につい自分でも色々唱えてしまう「素人」(神父に「気が散るから向こうでやってくれ」と言われる)…いつの時代も変わらない私達の姿などだ。


「息子が学校に行かず暴言を吐く、心療内科では何ともないと診断された」と訴える父親に対し「家庭に信仰はあるか、なければそのせいだ、悪魔は家庭で一番弱いところに憑りつく」と答えるのには、学校の先生に対処法が似ているなと思った。薬物依存で「勘当」された少年が口にする「憑りつかれて暴れれば神父に面会できるのに、落ち着いてくると会えない」という不満は本質をついており、学校でもどこでも、「暴れる者(のみ)の相手をする」ことにより、当人、対処者、更に「世界」が悪循環に陥るという状況があるのではないかと思った。


私から見るとかなり際どいところまで撮影されており、なかでも儀式を終えた神父が「すごかったなあ」とひとしきり笑った後で「憑依の性質を擬人化するのは危険だ」(例えば儀式中に「お前は追い詰められた猫だ」と言うと信者が更に「そう」なる)と語る場面には驚いた。この映画は撮影対象に対する判断をしないよう、撮影者の存在を観客に意識させないよう、とても気を遣っているけれど、こうした場面の数々から、幾つかの問題が窺える。


冒頭の面会の場面での「夫が他の女性に惹かれているようなんです、彼はエンジニアで…」「女性は秘書?」「建築家です」、先の家族への「しいて言うなら母親が悪い」などの言葉からは神父の旧弊なところが見て取れるが、何と言うか「管轄の違い」とでもいうような感じを受けた。日食を見た後に「『欧州』全土に悪は及ばない」と言うセンスに似ている気がした。そりゃあよそはよそ、だものね。


ラストシーン、会議を終えた神父が人っこ一人いない草むらをじっと見て、十字を切って歩み去る後ろ姿には、それこそ「猫があらぬ方を…」の神秘、あるいは逆に努力によって何らかの力をつけた「プロ」を見た。あそこで終わるなんて、優しい心のある監督だと思った。私は、神父さん達は、悪魔が憑りついているか否かを判別しているのだと思う。その上で「真偽」問わず全員に対処する。だから超忙しい(笑)でもって「本物」(と判別する対象)が出て来た時が更に大変なんだと思う。作中「本物」がいたか否かは、私には分からない。