死の谷間



見終わって思い出したのは、「そのままでは分けられない幾らかの数量の何かを分けるにはどうしたらいいか」という類のなぞなぞである。答えは、そこにあと一つのそれを加えて分け、余ったそれを減じる(適切な具体例が思い浮かばず訳の分からない文になってしまった・笑/以下少々「ネタバレ」)。この二人はもう一人が加わったことで二人だけでは行かなかった段階に進んだわけだけれども、その一人が除かれたらどうなるだろう?


マーゴット・ロビー演じるアンが防護服から顔を現した時、なんて瞳だろうと思う。それは中盤、キャップの下から「何を考えてるの、うちにいれないつもり?」とルーミス(キウェテル・イジョフォー)を見る目であり、最後にオルガンの前で、一人戻ってきた彼を見る目である。ケイレブを演じるクリス・パインの同じく「碧い瞳」はとても美しく、大変にうさんくさく嫌な感じで、十分な見どころである。「賭けるのはアンだ」なんて、何歩か譲って冗談のつもりでも、思ってもいないことは口から出ないものだ。


アンがセックスしたくなる(実は恐らく、常にそうなんだけども、とりわけ)のがいずれも「男が入浴している水音を聞いた時」というのが間抜けに思われて二度目には笑ってしまったものだけど、水にまつわる話だから絡めているのだろうか。「倒れるまで働くんだ」が信条の彼女の父親なら、冷蔵庫を使いたいだなんて甘えだ、贅沢だと言ったろう。そう思えば彼女は父親の影響下から、一人で生きるというだけじゃ抜け出せなかったのが、男達によって引っ張られ脱出したのだとも言える。


見ながら一番思っていたのは、もし私が異性愛者の男性と終末世界やら何やらで二人きりになったらどうだろう、いやそういう話なら幾らかあるけれど、そこにもう一人、相手と同じ、自分より「上の」属性の人間がやって来たらどうだろうということ。二人きりならマジョリティ・マイノリティという(「現実社会」での)関係から離れていられるかもしれないけれど、多数側の人間が加わったら又、多数派が形成されるかもしれない(だって男性の多くは、いかにもマジョリティぽい振舞いをしない男性を「そっち」に引き込もうとするしね!)。ルーミスが、アンには想定外であったろうあんなことを言う気持ち、私にはよく分かる。


取沙汰される字幕の「女言葉」問題は同時に「男言葉」問題でもあり、ルーミスのアンへの「come」が「来い」とされていたのには、「来て」じゃないからにはそういうキャラクターだと解釈したんだよね、単に男だからじゃないよね、と考えた(私は男性に「来い」なんて言われたことは無いし、この映画のルーミスもそうは言わなさそうに思われたから、違和感を覚えた)。