6人の女が家を出る段になってふと、集団が形成され攻撃が行われ大騒ぎの末にこんなことになったけれど、世の被害者にしてみれば突然蹴られたり殴られたり殺されたり(あるいは「助かったり」)するわけで、この映画はその「間」を浮かび上がらせているんだなと気付いた。恐怖が僅かな苦笑と共に募りつつ、日本にいるうちは大方マジョリティの立場である自分が被害者の側に立ってばかりなのはよくないと思う。
冒頭エミリーが子どもを迎えに来た保護者に「アジア人の掃除人のせいであなたの息子が危ない目に遭いそうになった」と嘘をつくのは、いわば個人で行う悪の活動である(それとは問題が違うけど、ああいうことをする教員はいるだろうと思う)。それが集団の活動に発展する。集会における、ドーナツやブラウニーの中途半端な量や彼女が手も洗わず行うハーケンクロイツ・パイの雑極まりない切り分け、その(リアルなら別に何ということもない)どことなくぼさぼさの髪も恐ろしい。
以前Twitterに、いわゆる成人向け雑誌のコンビニでの取り扱い問題につき「興味はないけど女の言い分が通るのが我慢ならない」というような言が流れてきたことがあったけど、私はそれが要するに「本物」の発言なのか否かを知らないけど、この映画のとりわけ主人公のエミリーは度々、端々にこうした「本音」をもらす。いわく人の気持ちを動かすにはソフトに入り込まなきゃとか、アジア人に嫌がらせをして気晴らしをしようとか。All Lives Matterなんてよく聞いた屁理屈に混じってのこうした尻尾は現実でも見逃しちゃいけない。
「立派な白人男性に似合うのは…こんな女性(と自分を指して見せる)」とのたまうエミリーを迎えにどんな男が現れるのかと思いきや、彼ら彼女らの階層では一見そう上位ではなさそうな男が登場し、女みたいにぐちぐち言わないで、金玉がないと思われたいの、などと叱咤されるが、こういう男でも女達の中に入るとなぜだか「自然に」「普通に」指示する側に自ら回るんだから面白い。仲間がエミリーを「あなたは彼より強い」とエンパワーメント…するのも面白い、他の女を殺しておきながら。