ロンドン、人生はじめます



映画の始めからいつものように美しいダイアン・キートンが、女達の「議会」に入るや精細を失う。他の女達が凄いというんじゃない、彼女が今の状況に甘んじて生きていることがここで露呈するのだ。思えばオープニング、雨音に起きた彼女はラジオの政治の話題(住宅事情に関する討論)にも他人事であった。


立ち退きものとしてはひねりがあり面白かった。エミリー(ダイアン・キートン)もドナルド(ブレンダン・グリーソン)も「Hampstead(原題)」ではよそ者で、「スキルがなく」仕事をしておらず、内心そのことに負い目を感じている。彼らは家を持っているのではなく家に支配されており、二人が「結ばれる」のは互いの家ではない場所である。


その屋根裏部屋でドナルドが「このマンションは君の住みかのようじゃない」と言った後、日の差し込むキッチンで料理するエミリーのところに息子が訪ねてくる場面で、彼女が自分を捧げてきた対象、あるいは理由が分かりじんとした。ただし息子自身は育った家にもう心を残してはいない。演じるジェームズ・ノートンの屈託の無さが映画を一段引き上げている。


コーヒーやジョークが好きな「物珍しがられるアメリカ人」のエミリーに対するのが、同じマンションに住むフィオナ(レスリー・マンヴィル)である。彼女の家の時計の針の音は時の流れを容赦なく告げているのだと分かる中、マンションが女達の牢獄だったとはっきり示される場面がいい。わだかまりは溶けないが、勇気ある女はもう一方の女に笑顔を残して去る。


「きれいなものしか見ないように」生きてきたドナルドの小屋もまた、一種の牢獄であった。面白いのは「小屋は移動できる」から、それだけ持ってよそへ行くことが出来るという点である。エミリーの「また同じ口論を繰り返すの?」のセリフと笑顔のラストシーンに、そんな間柄もありかなと思わせる。まずは自分の意思による家を持つこと、そうしたら、同じ家に住まなくとも、バスに乗った時には互いに持たれ合うこともできるというものだ。