オマージュ


ある女性監督が1960年代に残した映画の修復プロジェクトに中年女性監督が取り組み先人の道のりを知るという物語は、シン・スウォン監督が韓国映画界でかつて活躍した二人の女性について制作したドキュメンタリーが元になっているとのこと(未見)。今作られるべき、見られるべき映画だと思うと同時に今まで作られなかったのが不思議、あるいは壊されんとしている映画館であれが見つかるという展開は今を逃すともう間に合わないというメッセージとも取れる。

(以下少々「ネタバレ」しています)

本作はシン・スウォン監督の『マドンナ』(2015)と対になっている。そちらでは辛い過去を生き延びた主人公が死の淵に追いやられた女の過去を辿り最後にその声と姿を受け取るが、こちらでは自身の行き詰まっている境遇を女ゆえと意識しておらず他の女のことも見ていないジワン(イ・ジョンウン)が序盤でまだ知らぬ女の声を聞いて旅立つ。イ・オッキ(イ・ジュシル)の「最後まで生きなさい」が映画の終わりの隣人女性への「ありがとう」に繋がる。女がちゃんと生きているだけで心の底から嬉しく又それが自身の力となる、あれは私達の声だ。

作中作『幽霊人間』のポスターが『ガラスの庭園』(2017)の一場面であることからも監督がジワンに自身を重ねていることは明白だが、作中でも女が女に自身を重ねることが描かれる。娘がいることを仕事仲間にも隠さざるを得なかった「韓国初の女性監督」ホン・ジェウォン(キム・ホジョン)が『独り身の母』『女判事』という作品を撮り、主人公に自身が手離さないタバコを吸わせ、撮影後は「事実」と異なる「ハッピーエンド」を迎えた主人公の衣装を身につけるのもそれゆえだ。これには(韓国や日本ではどうだか分からないけれど)スタンダップにつきマイノリティのネタはほぼ自身のことである(対してマジョリティは架空の話も持ち出す)というのが脳裏に浮かんだ。

一人ではできないが二人ならできることの象徴であるシーツを畳む行為がジワンとオッキによってなされるが、男性である映画祭のチーム長(オ・ジョンウ)が時折手を添えるのが印象的だ。一人だったジェウォンと異なりジワンの横には息子ボラム(タン・ジュンサン)と一応夫サンウ(クォン・ヘヒョ)がいるが、父親が当番の皿洗いをしないことを非難しつつも母親が彼のそばにいれば済む、監督などやめたらどうかと口にする息子や「夢見る女と暮らせば寂しくなる」、すなわち一緒に過ごしたい、セックスもしたいと思っているが家事は一切しない夫の描写からは、確固たる自身を(息子の場合は「まだ」)持たず社会に影響され女性を抑圧している男達の姿が伝わってくる。これは『マドンナ』の悪そのものといった男達の描写とは異なるがどちらもリアルである。

『マドンナ』では破水で流れた羊水が足元を伝っていたが、本作では子宮筋腫による不正出血が流れる(病院に行くと男性の婦人科医が手術を勧めながら「まさか出産の予定が?」と言ってくるのに女性医師ならどうだったかなと思う)。仕事に行こうとするも倒れてしまい翌日手術に至るくだりなど、全身麻酔におちる場面含めて体の事情はどうにもならないといった現実味があり妙に惹き付けられた。