インタビュアー/幸福/ブバ


ジョージア映画祭2022にて、ラナ・ゴゴベリゼの新作「金の糸」公開記念の「ゴゴベリゼ家・女性監督の系譜」企画より三作(うち短編二作)を観賞。

▼ラナ・ゴゴベリゼの「インタビュアー」は1978年の作品。偏見を持っていた私が一瞬意表を突かれたことに、映画は当時のアメリカや日本の作品でよく聞いたようなジャズフュージョンで始まる(オープニングクレジットに演奏は国立交響楽団とあったけど、あれら全てそうなのかな)。主人公ソフィコ(ソフィコ・チアウレリ)の朝の一幕では子どもがアバのMoney, Money, Moneyを大音量で鳴らして叱られる。

話を聞くのが好きなソフィコと写真を撮るのが好きなイラクリの新聞社コンビがぶら下げたパンを齧るなどしながら仕事をしている様子と、ソフィコの一家の朝の様子。仕事でも家庭でも陽気な彼女はOver the Rainbowに始まり歌を口ずさみピアノを爪弾き踊りを踊るが、家のみに存在することを求められるうち静かになっていく。しかしそれでもどこか楽しくてしょうがないという、いわば生命の火が消えることはないといった感じを受け、そこが好みだった。

ソフィコは日常の中で自身の過去や他の女達から聞いた話を思い出す。ソ連の粛清により母親を奪われた自分を迎えに来てくれた、今も二人で暮らす叔母達、歌を歌うことで家族の仲を保っているという一家、夫と子どものために存在している、余暇などないし夢は明日の朝食を皆が食べてくれることという女、男の機嫌を始終とらなきゃならない位なら一人の方がいいという女(見ながら1978年は「結婚しない女」の年だとふと思う)…弱い立場の話を世に伝える者が自身を省みての惑いと生き様が、今なお強く訴えかけてくるこの映画の第一の魅力だ。

そういえば、と彼女と同じく私も思う、ソフィコだって家で何もしていなかったことはない。始めの朝の一幕だってカメラから消えていたと思えば髪を巻き、すなわち自身の身だしなみを整えていたし、昇進といえば聞こえはいいが外に出ない部署への移動を断ったことについての夫との話し合いも自分だけ台所仕事をしながら。一方で大学教授の夫は「論文を書いたところで世界は変わらない」と仕事に意欲を持たず、家事もしない、要するに何もしない。それで「耐えられない」というんだから分からない。昔に戻りたいだの誰もいないところに行きたいだのと変化から逃げてばかりいる。

映画の終盤、ソフィコはイラクリの元を訪れ時間を忘れて眠ってしまう。何者でもなく、何もしていなければ何も思い出しもしないひとときだ。そんな時間が、例え現在だって私達にあるだろうかと考えた。

▼「幸福」はラナ・ゴゴベリゼの娘で「インタビュアー」にも主人公の娘として出演していたサロメ・アレクシ監督の2009年作。携帯電話の間抜けな着信メロディに死体、涙ながらの女の声の組み合わせが実に喜劇(死体は死体というだけで面白い)。同映画祭で先に見た「失楽園」(1937)にも出てきて目を惹いた日傘がここでも印象的に使われていた。

先の「インタビュアー」と比べながら見ることができ面白かった。以前は女は家の中のことばかり(それがこちらで「私達は雌鶏みたいにこもってたのに」と話していた世代だろう)だったのが、あれから30年、独立後20年ほど経ったこの時代には豊かな国へ稼ぎに出ている。「インタビュアー」では車が欲しくとも手が届かなかったのが、こちらでは妻の仕送りで買っている。男を置いて、といっても女が外へ出るのは男のためなのであるが、当の男達は座っているばかりで「変化を求めない」、これは30年前と同じである。妻が話の中で雇い主や出稼ぎ仲間など同じ女性との交流をやたら持ち出すのが印象的で(男達は痛いところを突かれるのでやめろと言う)、不法労働者として外国に出なければ得られなかったものであろうと考えたら悲しい。

▼「ブバ」はラナ・ゴゴベリゼの母親でジョージア初の女性監督ヌツァ・ゴゴベリゼの1930年作。2018年のジョージア映画祭で見たミヘイル・カラトジシュヴィリの「スヴァネティの塩」も同じ年の作品で、やはりスターリンの五カ年計画による同州の建設事業を紹介するという体裁を取っていた。

軍用道路は地元民のためにならず観光客がやあやあ素敵だなとやって来るようになった、というくだりに続く「岩山や峡谷に遮られて中世の暮らしをしている」ラチャの人々の様子には目が釘付けになる。「家父長制により30人を超えることもある」上に二、三歳から働き始めるので総勢幾人かという大家族で朝から晩まで鍬をふるい、家畜の糞を(岩の上では車輪が使えないので)橇状の道具で大事に運び、イラクサを摘む。男達は木こりとして出稼ぎに行く。映画は鉱泉を利用した保養所や水力発電所の完成により当地の貧困が解消されるであろうことを示唆して終わるが、実際どうだったのだろう?