ある歌い女の思い出


イスラーム映画祭2022にて観賞。1994年チュニジア=フランス、ムフィーダ・トゥラートリ監督作品。

宴で舞う母の姿に娘はそっと窓から離れ、母の物ではない化粧品やガウンを纏いレコードの音楽に体を動かしてみるが、上手くできず終いにはくるくる回る。後に男女の抱擁を見た際に庭で駆けるのも同じで、芽生えた興味をどうしていいのか分からないように見える。母娘の会話に「サラを真似ないで」「じゃあ誰を見習えば?」とあるように、少女が素敵になりたいと願う時、性的欲望を抱いた時、世界には多様で適切なモデルはなく、ただ男に自身を晒し消費されるしかないという、この状況は今の日本とて同じだろう。

現在のアリヤ(アーメル・へディリ)が、ある報せから今は静まり返っている王宮を十年ぶりに訪れる。母が出産や堕胎に苦しんだ部屋には鍵が掛けられているが、「1階」の台所へ足を踏み入れた時、彼女の顔に何かとても素晴らしいものと共にあるような笑顔が浮かぶ。その回想先は共同生活をしていた召使の女達の歌声であった。男がやってくるとそれが「誰」かによって場の空気が一変する描写などリアルでいい。アリヤが周囲から女と見られ居心地が悪くなり始めるのと共に外では独立運動の気運が高まり、それを漏れ聞く、閉じ込められている女達の口から徐々に、ぽつぽつと、自身の境遇への嘆きや叫びが出てくる。それらを受けて最後、アリヤは歌でもって初めて「2階」に反抗するのだった。

アリヤが初めて歌う場面が素晴らしい。まだ何も経験していないのに愛の歌を見事に歌う、しかし少女とは、女とは、あるいは少年もそうかな、そういうものではないか。その瞬間を見たようだった。それが外からやってきた青年に初めてのときめきを覚えて歌う時には歌に詞がないんだから面白い。現在の彼女があの頃に端を発する頭痛に悩まされつつ、人目に怯えつつ、いまだ歌を歌っているのは才能があるから、好きだから、それしかできないから、全てが絡まってのことだろうが、かつて捨てた場所で自らを顧みることにより、これからは強い意思でもって自己を表現しようと決意する。世界のある部分が変わらなくとも、あるいは変わらないからこそ自分は変わろうという、今でも心から受け取れるメッセージだ。