イスラーム映画祭2022にて観賞。2007年アメリカ=イギリス=フランス=ドイツ=オーストラリア、ゲイのムスリムであるパーヴェズ・シャルマ監督が同志達の姿を収めたドキュメンタリー。
最初に登場する指導者ヘンドリクスはとにもかくにも私達は現実に存在しているのだから自死したり棄教したりしないようカウンセリングを行なっていると話す。この「私が現実に存在している」という文言は日本ではここ数年特に強く言われるようになった印象がある。言わずとも当然のことなのに言っても否定される始末だから主張せねばならないのだ。
上映前の解説で、アメリカ同時多発テロから6年後にこのようなタイトルの作品を発表したところに強い意思があると聞いたのが見る際の大変な導きになった。作中ジハードという言葉を口にするのは二人、そのうちヘンドリクスは「ジハードは(一般的にそう取られている)聖戦ではなく魂の戦いだ」と言う。作中出てくる人々は皆、敬虔なムスリムにして自分なりのジハードを行なっていると言える。
「私は自己流で踊る男のダンサー」、フランスに逃れて住まいを手に入れたマーゼンのベリーダンスは前日に見た「ある歌い女の思い出」の主人公の母の踊りとは全く違う、自由な気持ちがほとばしる気持ちよいものだが、それは恋しくても帰れない故郷では出来ないことなのである。「エジプトのラマダンはどう?」と聞かれて生き生きと話す姿が心に残る。
レズビアンも(こういうドキュメンタリーでは見られない、少ないことも多いが)何名か登場する。女性の場合はまず、同性愛者であろうと異性愛者であろうと性器縫合や年若く虚弱な体での出産を強いられたり、巡礼で心の平穏を得たいと望んでも夫もしくは身内の男性と一緒でなければ行けなかったりという困難がある。「法学の本を買ってみたけどレズビアンに関する記述は数行しかない、ばれても叱責されるだけだとある」への「もっと強く罰せられたい」の含蓄あること。
他国へ逃れた男性達が連絡を取るのが全て母親なのが印象的だったけれど、そういうものなのだろうか。ピンクを纏った恋人を連れて母の元を訪れたレズビアンのマリアムが、家の雌のオウムが他の個体を攻撃するという話に雌を入れてみればと返す、いわゆる同属ジョークへの母親の「流行りだからね」。あのシーンはよかった。